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「第2回てつがくカフェ@ふくしま」(2011.6.25開催) は 「〈ともだち〉 とは誰か?」 のテーマのもと、14名の参加者で行われました。
まず、自己紹介とともに 「友だち」 という言葉をめぐって、各々の関心について語っていただきました。
中でも、自分が 「友だち」 だと思っていた相手から 「あなたは友だちじゃない」 と言われたという経験談などからは、
「友だち」関係が相互承認に基づくものなのかという論点が浮かび上がりました。
たしかに、「友だち」関係においてはいちいちお互いに 「私たち、友だちだよね?」 と確認し合うことはないでしょう。
その意味で言うと、恋愛関係においては互いに「愛しているよね?」と確認し合わなければ不安であるのに対して、
友だち関係にはお互いに確認し合うことで何かが崩落してしまうかのような不安があるのかもしれないとの意見が出されました。
この不安は、ある参加者の「友だちとは関係を固定化する枠」 という発言と関係するかもしれません。
それによれば、「友だち」とは 「あたたかいもの」 であると同時に、「行動を制限するこわいもの」 だとのことです。
たとえば、友だちと同じ相手を好きになってしまった場合、
「友だち」関係を壊すような抜け駆けをするわけにはいかないと、
自分の恋愛行動にどこかブレーキをかけてしまうそうです。
つまり、「友だち」は行動の選択に際して自由度を広げるものではなく、
むしろその関係性を壊さない範囲で自由を認めるような圧力を強いる存在のようです。
そして、こうした圧力的な関係性がいわゆる「女子校」 特有の「友だち」関係と関連づけて語られたことは印象的でした。
これは男女の友情観の違いとも関連しますが、参加者によれば 「女子校」 での 「グループつきあい」 の排他性は凄まじいまでの暴力性を帯び、そこにおいて単独行動することはその空間での生命の危機を意味するそうです。
しかし、果たしてそれが「友だち」と呼ぶものなのでしょうか。
むしろ、それはその集団内空間で生き残るための 「派閥」 なのではないか。そんな意見も出されました。
また、こうした 「友だち」 関係が暴力性を帯びる背景には、
実際の友だち関係が形成される以前に、「友だち関係とはかくあるべし!」 といった「友だち規範」のようなものがあり、それに束縛されてしまっている面があるのではないかとの指摘も挙げられました。
こうしてみると 「友だち」 とは、何か自分を苦しませる存在や関係性であるかのように思えてきます。
しかしながら、これらの意見に対してある参加者からは、年齢を積み重ねるとともに、
その「枠」 から解放されていくような気がするとの意見が出されました。
その意見によれば、若いころはたしかにこの閉じた 「友だち」 関係の「枠」に苦しんだものの、
年齢とともに少しずつ自分でその相手や関係のとり方を選べる余裕が身につくと、
「友だち」 関係から自由になったように思うとのことです。
つまり、自分が相手とどのような関係性を取りうるかという「自由」 が保障されることが、
「友だち」とは何かを問う際に重要な要素となるというわけです。
さらに、この 「自由」 というキーワードは 「親友」 という概念にとっても重要であることが確認されました。
私たちは数ある友だちのなかでも、格別の存在に 「親友」 という名を宛がいます。
そこにおいて 「親友」 は 「何でも話せる」、「甘えられる」 存在で、
時には互いの壁を突き破ってケンカすることができる 「素をさらけ出せる存在」 といってよいでしょう。
しかし、この「裏表なく自分の素をさらけ出せるのが親友」との定義は、
時として「素をさらけ出せなければ真の友達ではない」というプレッシャーを与える「友だち規範」にもなりかねません。
あるいは、「親友」もまた 「恋人」 のような距離の「近さ」や、
1対1といった関係性において成り立つものであるとすれば、そこには必然的に排他性も備わるでしょう。
しかし、そこに「自由」 というキーワードから読み解くならば、
むしろそれは 「素をさらけ出す/出さない」 自由が保障される関係性こそが「親友」の名にふさわしいということになります。
さらにいえば、そこには相手との自由な距離感が確保された関係性を見ることが可能かもしれません。
ある参加者からは、「友情とは 、二つの人格が等しい愛と尊敬によって一つに結びつくことである」(『道徳形而上学』) というカントの思想が紹介されました。
それによれば、理想的な親友関係とは、友情とは人を引きつける「愛」の「引力」と相手を「尊敬」するがゆえに距離をとる 「斥力」とのバランスにおいて実現するとのことです。
すると、「素をさらけ出す/出さない」自由の緊張とは、この「愛の引力」と「尊敬の斥力」のバランスにおいて実現されるものなのかもしれません。
最後に、「友だち」とはいかにして成立するものなのか、という論点に関して。
参加者の一人は「友だちになってほしい」と言われた経験があるとのことでしたが、
これについては「友だち」とは意図的に作り上げられるようなものではなく、
自然になるものではないかとの意見が出されました。
それについて、また別の参加者からは、「友だち」は同じ苦しみや目的が共有される過程で形成される何かではないかとの意見が出されました。
「戦友」や「同志」といった存在はそのような経験を共有する中で形成されていくものでしょう。
しかし、その一方でまた別の参加者からは、
ある目的が達成されてしまったあとにその関係性が持続しなくなった問題をどう考えればよいかとの問いも出されました。
すなわち、同じ部活動において、同じ職場においてともに共通の目的に向かって協働したもの同士が、
その目的達成後には、その関係も自然と解消されていった状況をそう考えればよいのかといった問題です。
果たしてこの関係性は「友だち」なのか?
これについては利害を共有したもの同士で持続するのは、
「友だち」ではなく「仲間」ではないかとの意見が出されました。
そして「〈ほんとう〉の友だち」とは、そうした利害関係がなくなっても、
なお持続する関係性を指すのではないかというわけです。
では、利害を超えてなお持続可能な 「友だち」 関係が持続する条件とは何でしょうか?
ある参加者によれば、その人への「信用」であるとのことです。
さらにつっこんで、思想も言動も何もかもまったく相反する立場(つまり敵)にある相手を「友だち」とすることは可能でしょうか?
ある参加者からは、それが可能であるためには、その人の思想や言動の「本気度」が条件であるとのことです。
ある人の思想や言動をまったく受け入れられないとしても、
その人が自分の思想や言動を本気でなそうとする限りにおいて、
それは「尊敬」に値するものとして「友だち」関係は可能ではないだろうかというわけです。
しかし、現実においてそれはありうるのでしょうか?
そんな疑問を投げかけつつ、しかしそれは不可能な「友だち」、
つまり来るべき理想としての「友だち」として考えるならば、非常に興味深い考え方であるといえるでしょう。
ちなみにその発言者は 「そうであるがゆえに自分には友だちがいない」 とまでおっしゃっていたことがとても印象的でした。
為された議論は以上に尽きるものではありません。
しかし、残念ですがそのすべてをここに書き記すことはできません。
とはいえ、今回の議論では「友だち」とは何か、
その条件をめぐって参加者の皆さんから重要なキーワードがいくつも提起されながら建設的な議論が展開されたように思われます。
こうした貴重な経験を皆さんで共有しあいながら、次回もまた有意義な哲学的対話を実現していきたいと思います。
ぜひ、次回も多数のご参加をお待ち申し上げます。
なおご参加いただけた皆様にはコメントやメッセージ欄、あるいはメーリングリストをご利用の上で議論を引き続き交わせれば幸いです。
ぜひ、そちらにもメッセージをお寄せ下さい。