第28回てつがくカフェ@ふくしまは、初のユニックスビル会議室で行われました。
テーマは「<信じる>とは何か?」。
なかなか哲学的な問いです。
が、前日の初雪や寒波のためでしょうか。
それとも、あらぬ
風評被害のせいでしょうか。
参加者はいつもと比べると少ない14名でした。
しかし、いつも以上に発言のテンポが早く、しかも濃密な議論が展開されます。
それもこれも、今回はテーマについて「予習」してきた人ばかりだったからです。
まずは、その中のお一人が、家でまとめてきたレポート内容を読み上げるところから始められました。
それがこれです。
「今日は会場(みなさん)があったまる前にトップバッターで発言しようと思い予習してきました。
わたしは信じるとは希望だと思います。
そもそも言葉のもたらす雰囲気がポジティブで自分にとって都合の悪いことに対してはあまり使わない言葉だと思うからです。
なので、それは正しさよりもたくさん種類や個人差があってよいもので、すごく個別的なことだけど何よりも強いものに思います。
わたしはサンタクロースを信じていますが、その信じるっていうのは、実際にいるかいないかを追及して解答を得たいわけではないからです。
信じるには行為と感情のふたつの面があると思うのです。
うまく説明できないのですが、信じようと決めることとごく自然に信じられることの両方があってでもやっぱりその原動力はどちらも希望じゃないかなと思います。」
「サンタクロースはいる」と信じるその参加者は、しかしそれはサンタがいるかいないかが問題ではないと言います。
それを信じることで幸せな気分になれることが大事なのであって、サンタの存在はどうでもいいのだそうです。
それゆえ、そうした良好な状態をもたらす効用が「信じる」ことの本質だというわけです。
この意見について別の参加者は、サンタとは「自分のほしいものを届けてくること」を本質とする存在で、それは恋人でも家族でもそれを体現してくれる人であれば誰でもよく、そこかしこにいるものではないかと言います。
「いないけれどいる」ような存在。
それは自分の願いがかなうようなワクワク感をもたらすもので、したがって「未来に向かう希望」こそが「信じる」ことの本質であると言うわけです。
また、「信じるとは〈待つ〉姿勢である」という意見も出されます。
それによれば、信じる対象は「予めわからないこと」であり、何かが「できる」ように願うのは、いまだ「できないから」であり、そこには「期待」という言葉を宛がうこともできます。
もちろん、待てば願いが叶うかといえば、そんなこともありません。
しかし、期待したことが叶わない(来ない)からと言って、それが嘘だとは言えないもの、それが「信じる」ことの対象ということになります。
すると、生きることそのものが何かを待つことだと言えそうだし、それはつまり「信じること」が生きることだと言いかえることもできるのではないか。
そして、それが生きていることの喜びを受け入れることに通じるのではないかというわけです。
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さらに、「希望」や「期待」という言葉から、てつがくカフェ@ふくしまの趣意書を結びつける意見も挙げられました。
そこにはこう書かれています。
「……もしかしたらそこには福島独特の新しい 〈てつがく〉文化が創造されるかもしれません。
そのような期待も込めて、私たちは福島へ向けて 〈てつがく〉 の種を蒔くことを目指します。
しかし、同時に私たちは、その蒔いた 〈てつがく〉 の種が福島を越えて拡散し、 開花していくことを期待します。」
たしかに、@ふくしまの趣意書には「種」や「期待」といった未来志向的な言葉が並べられていました。
(作った本人はすっかり忘れていましたが…
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)
そして、それは信じられる場所があることに他ならない、という最高の褒め言葉までいただいてしまいました。
また、ある参加者は正しいかどうかを信じるということは、必ずしも100%の正しさを必要としているわけではなく、「信じられる」ものにも度合いがあるのではないかと言います。
この意見を聞いたとき、ワタクシ(渡部)はある果樹農家さんの話を思い出しました。
福島の農家が風評被害に苦しめられていることは周知のことですが、その根底には、徹底した食品の安全検査を実施しているにもかかわらず、その理解がなかなか世に広がらないことがあります。
するとその農家さんは、「測定の数値を見せると一人ひとり受け取り方が違うからそれについては何とも言えないけれど、少なくとも福島の農家はきちんと安全検査をしているということを示すことで信頼できる、と思ってもらえる努力をしている」と話して下さいました。
国が定めた食品の放射性物質の安全基準値はありますが、もちろんゼロでなければならないという人から、まったく数値を気にしない人もいます。
しかし、低線量被曝であれば、どのくらいの線量がどのくらいの健康障害をもたらすのかはわからないというのが実際のところでしょう。
そこには100%の正しさどころか、客観的な数値に対して無数の個別的な評価が存在します。
つまり、それは客観的と言えるどころか、信じることの主観性が拡散される事態を招いたわけです。
しかし、その農家さんがおっしゃった「信頼」とは、その数値とは別に、食に携わるものとして検査を詳らかに公開する姿勢によって得ようとするものです。
これは「わからないもの」に対して放置するでも断定的な評価を示すわけではなく、「わからなさ」を保持したまま、できる限りのことをする「誠実さ」のことではないしょうか。
これについては、「信頼」ということに関して3.11以降、数値を信じる/信じないではなく、人としての在り方を信じる対象として考えるようになったという意見が挙げられました。
さらに、信頼は「理屈じゃないところにそれはある」とも言います。
では、理屈じゃないとすれば、「信じる」ことの根拠となるものは一体何なのでしょうか?
序盤は、「信じる」ことに備わるポジティブさを指摘する意見から議論が展開されていきましたが、それに対して「盲信」という言葉があるように、「信じる」ことに備わるネガティブな面をどう考えればよいか、という問いが立てられました。
もちろん信じることで精神的にポジティブな効果を得られることはあるかもしれないが、信じたからと言って叶わないこともあるし、届かないこともある。
それをどう考えるべきか。
これに対しては、「信じる」の反対は「疑う」ことであり、疑わなくなることは、すなわち「考えない」ということになるのではないかという意見が出されました。
その結果、「狂信」を生み出すのではないか。
つまり「信じること」と「考えること」は対極的なものであり、信じている間は考えることはできないということが確認されました。
このことは「行為」とも関係するかもしれません。
誤っていようと「信じる力」はどんなことでも成し遂げようとする強い意志を生み出します。
一方、考えたり疑っている間は、行為を麻痺させます。
迷いを生じさせるというと、思考がネガティブなものに聞こえますが、実際考えることは信じて疑っていなかった行為にストップをかけたりするものです。
すると、やはり信じることは考えることを止めて、初めて成り立つものと言えるのかもしれません。
この「考えない」、すなわち思考停止と「信じること」の関係は、終盤で再論されます。
また、「信じる」ことのポジティブな面が「希望」であるのに対して、ネガティブな面としては叶うかどうかわからないものを待つという点で「忍耐を強いられることになり、それは結構しんどいことではないか」という意見が挙げられます。
そもそも「信じる」か否かという問題は、自分が望んでいない方向に事が進んでいるときに生じるもので、疑いなく受け入れている状態の時には問題にすらならないものだという意見も挙げられます。
これを「体験したことしか確信できない」という参加者は、体験していないこと、つまりわからないことを選択するときに「信じる」ことが働くと言います。
「知っている」や「わかったこと」、「認識」が「真実」に対応しているのに対し、「信じる」は「わからないこと」に対して用いるものです。
すると、この参加者にとって「わかる」ことは体験によってのみ得られることですから、体験していないことはすべて「信じる」対象だというわけです。
これはなかなか面白い意見で、その参加者によれば、三次元を超えた異次元の世界を体験したので、この世界とは別次元の世界があることを確信していると言いますが、それは「認識」の対象であって「信じる」対象ではないそうです。
ワタクシの友人には、いわゆる霊感をもつ人がいるのですが、まったくその世界を信じていないワタクシにとってその友人の見たものは存在しないものです。
しかし、その人が「見た」と言って確信を持っているものを、「存在しない」と証明することは意外と難しいのではないでしょうか。
その友人は、自分しか見えなかった心霊現象に関しては「それは見間違いだ」と納得するようにしているそうですが、しかしその場で複数の人で同時に見た心霊現象については「存在した」と言い切れると話していたことがあります。
認識とは何かを考えさせられる意見でした。
さらに、「信じる」ことを行為の選択の面から考える立場からは、どちらにしようか選択を迷っている状況をいいとこ取りをしようとする、腸内の「日和見菌」に喩える話も出ました。
けっきょく人間は「わかる」から行為を選択する以上に、迷いながら選択する方が多いのだとすれば、生活のほとんどは「信じる」ことによって営まれているのではないでしょうか。
(高層ビルは崩れる恐れがないという前提で、そこで働く人々は建築構造を理解して得たものではないでしょう。)
だからといって、事実認識と信仰のレベルはやはり異なるものだと区別する必要があるとの意見があがります。
むしろ、昨今では「信じる」と事実認識の使い方の混乱が甚だしくなっているのではないか。
そんな危惧は、原発事故以降、科学が判断の正しさを保障してくれるわけではないことが明らかになった今、深刻なようにも思えます。
そういえば、原発事故直後、科学の名のもとに怪しげな民間療法もたくさん出てきたこともありました。
ただし、それだってどこまでが科学的なのか、魔術的なものなのか、やはり判別が難しいものだったのではないでしょうか。
科学の進歩は確かにわかることを増やしてきましたが、しかしわかることが増えると同時に、益々わからない謎が深まるということはありうるでしょう。
このことを、かつて優秀な若者がオウム真理教に入信し、テロルに走ったことに重ね合わせた発言がありました。
私が大学生だったときのことですが、理論物理学を研究していた大学院生の先輩が、宇宙の誕生について研究していった行きついた結果、「神がいるとしか思えない」と話してくれたことがありました。
その先輩が熱心な新興宗教の信者だったと聞いたのは後々のことですが、最先端の科学を研究している人間が、信仰の世界に引き込まれるのは不思議ではないのかもしれません。
「わかる」ことは不安を払しょくしてくれます。
それゆえ、答えが出ない状況に追い込まれた人々が最後にすがりつくのが宗教だとすれば、その信じられるものに出会ったとき人は探究をやめるものではないか。
人は「わからなさ」に耐えられないものではないか。
だから「信じるもの」の力はスゴイ。
オウム真理教にせよイスラム国にせよ、その人たちにとってはポジティブな力が与えられているじゃないか。
やはり、「信じる」ことは肯定的な力を生み出すものだという見解にまとまりかけます。
しかし、本人にとって救いがもたらされたとしても、それがテロリズムに結びつくのだとしたら、それは「よいこと」とは言えません。
だからこそ、やはり「信じること」は個人的なもの、主観的なものにとどまるというわけです。
一方、事実認識のレベルが信仰のレベルと混同されているという問題は、歴史認識の問題にも言えることではないでしょうか。
先の体験だけが認識を可能にするという参加者の発言を踏まえれば、過去に起きた出来事は、その当時に戻って体験できるものではありません。
すると、歴史は「認識」ではなくて、「信じる」対象だということになるのでしょうか?
神話的な史観を歴史教科書に反映させようとする動きや、特定の歴史観から事実の認定を拒む、あるいは「ねつ造だ」と断罪する動きの背景には、実は歴史は事実認識ではなく「信じる」意識作用が潜んでいるのではないか。
この問題は最後に取り沙汰されることになります。
議論が終盤にさしかかり、「信じることと思考停止の問題を掘り下げたい」という問題提起が挙げられました。
これに対して、映画『
ポーラーエクスプレス』の中に疑いを象徴する人物が登場するのだけれど、それは決して悪者としては描かれていないという話題が出されます。
つまり、そこには「信じること」と「疑うこと」とが微妙に交錯しながら描かれる場面が印象的であったというのです。
たしかに、何の疑いもなくストレートに信仰に向かうケースもあるけれど、実は「疑いのフィルターを経て残ったものの中に信じられるものがあるのかもしれない」という意見が出されました。
考えてみれば、歴史的に残ってきた宗教は様々な疑いや検討を経て残ってきたものでもあります。
すると、「疑うこと」は「信じること」の対極にあるどころか、その強度を増すための条件ですらあるかもしれません。
そういえば、かつて私はある勉強会で、カルト教団からの脱会を助ける活動に取り組んでいる牧師さんの話を伺う機会があったのですが、彼にカルトへ引き込まれないようにするために教育にできることは何か、と尋ねたところ「疑う力を育てること」と答えてもらいました。
信仰を生業とする牧師さんからこのような言葉を聞くのは驚きでしたが、どうも真の信仰へ到達するには懐疑の力を必要とするようです。
疑う力とは、すなわち考える力に他なりませんが、当初、考えることと信じることは相容れないという話で展開したことはすでに見てきました。
ところが、今や議論を経てそれらの境界は曖昧になっています。
さらに、アトピーで苦しんだ過去を持つ参加者からは、当時苦しさからある栄養補助食品を購入していたとの話が出されました。
今では症状が改善されたから言えることかもしれないが、健康であったら信じてその商品を購入することはなかったとのことです。
苦しいときにはすがらざるを得ない。
そのとき「信じる」ことが起動し始めます。
けれど、その参加者は「では、そのとき何も考えていなかったのかと問われれば、そんなことはなかった…」と思うと言います。
考えに考え抜いた結果、それでも「信じること」で最終的な選択に至った経験は、無邪気に考えずに選んだというものではなかったと言うのです。
しかも、症状が改善されたのは、あの食品のおかげだったのではないかとさえ思うこともあり、その点ですでに話にあがった100%正しいから信じられるというものではなく、境界線上のあいまいさの中で立ち上がってくるものなのかもしれません。
このことは放射能被ばくの問題を例に挙げるまでもないでしょう。
ホメオパシーの問題のように、民間療法ではこの種の疑いと信じることの境界線上で折り合いをつけていることなど、医学の世界ですらあるわけですから。
このように終盤は「疑うこと」と「信じること」との区分が揺らぎ、その関係性が問われる地点に到達した段階で落ち着いたように思われます。
これに関しては、2次会だけを目的にカフェの終盤に来場した参加者から、疑う/信じるという二項対立の関係でなく、そもそも「信じること」は「疑うこと」とは別のところにある気がするという、謎めいた言葉が出されました。
これについては2次会の自己紹介で語られることになるのですが、話が長すぎたのでここでの説明は割愛させていただきます。
さて、最後に、今回取材のため来場いただいた東京新聞の記者さんから私に向けて「歴史認識に関して、事実認識と信仰の問題の混乱があるのではないかいという点をもう少し聞きたい」との問いが投げかけられました。
そのときは、うまく答えられないままタイムアップ。
これについては、このように考えています。
昨今、自国のアイデンティティや誇りに役立つものこそ歴史だという主張が勢いを増しているように感じます。
もちろん、歴史をナショナリズムの構築に利用することは、昔も今もどこでも行われていることです。
けれど、その歴史の道具的使用は、ときに慎重な事実の認定よりも、安易な「信じられる事実」の選択に陥る危険があるものです。
たちが悪いのは、自らの歴史観や信念を守るために都合の悪い事実は「ねつ造」や「虚偽」のレッテルを貼ることです。
もちろん、その危険性はナショナリズムの対極に立つ歴史観についても同様に当てはまります。
それが相互のイデオロギー論争に陥ったとき、互いに壁を作って事実を共有する努力をせずに、自らの立場に合う歴史事実(と称する見方)や解釈だけを真実と見なす閉じた歴史認識が蔓延るのではないでしょうか。
彼の国と我が国の歴史認識が一致することはありえないと、他者との共有へ向かわない態度は主観的認識に留まろうとするものであり、その点で「信じる」レベルに限りなく近いと言わざるを得ないのではないか、と思うからです。
「わかる」とか「知る」という認識のレベルは少なくとも他者と共有される客観性を志向するものであり、「考える」というのは「確信」という名の「思い込み」、「独断」、「偏見」から解放してくれる営みを指すものです。
しかし、その努力を放棄ないしは諦めるということは、客観的認識の不可能性を嘯き、自らが「正しい」と思えることのみを真実と見なそうとして事実認識と信仰とを混同させるのではないかと思うわけです。
来年はもう戦後70年になります。
戦争経験者もどんどん鬼籍に入って減少する一方、その経験者たちの声すら「ねつ造だ」と言って憚らない風潮や、ある種の歴史観に不協和音を鳴らす声には耳を傾けない風潮があるとすれば、それは歴史認識を称した「信仰」にシフトしているように見えるのです。
そして、そこに反知性主義の萌芽があるように思えるのです。
さて、今年も残すところわずかとなりました。
おかげさまで、てつがくカフェ@ふくしまも多くの皆様に支えられて充実した一年を過ごさせていただきました。
来年は、新春1月9日にはあの名作『悪童日記』の映画化作品を見て、シネマdeてつがくカフェが開催されます。
また来年も多くの皆様と出会える場となるますよう、心からお待ち申し上げます。
では、よいお年を!