世話人・杉っちの長男誕生を祝して開催された第35回哲学カフェは、「〈名づけ〉とは何か?」をテーマに15人の参加者による対話が交わされました。
まずは、そのご本人から息子の名づけにまつわるエピソードの紹介から始められます。
杉っちによれば、当初、名前には大して意味はないのだから、男の子だったら「太郎」、女の子だったら「花子」にするつもりだったと言います。
名前を重要視しない理由について彼は、名前で人生が決まるものでもないし、むしろ名前はその人の成長や生活の過程で意味づけられていくものであるからだと言います。
ただし、あまりにも変な名前を付けては、その子がかわいそうなところもあるので、適当にはつけられないという思いに至り、最終的には「陽樹」と名づけたとのことでした。
呼び名は「はるき」です。
これに関して、別の参加者から名前は亡くなった後にも継続して使われたり、「名を残す」という意味ではその人の生き様や生前に築き上げたものを事後的に表すものとして、やはり初めの意味付けはそれほど重要ではないとの意見が挙げられました。
これに対して、最近の流行の名前というのは実際にあって、有名人にあやかるケースにせよ、「親の期待」が賭けられていることがあるのではないかとの意見も挙げられます。
名前に意味はないとうそぶいていた杉っちでさも、「陽樹」には明るく、樹木のようにどっしりした人に成長してもらいたいという願いが込められていると言います。
その意味で「名づけとは、親がその思いを子どもに託す行為である」との定義が挙げられました。
「リポビタンD」等の商品名や「ミッキーマウス」といったキャラ名、会社名にも名づけの際には願いが託されているものです。
その一方、名前は他の子どもがいるから張り合いの中でつけられるという意見も挙げられます。
いわゆるキラキラネームは、他の子どもとの違いを際立たせる「オリジナリティ」をその子に与える「愛情の現れ」だというのです。
キラキラネームの奇抜さが話題に挙げられることも珍しくありませんが、かつて昔はもっとひどい名前(「トメ」や「シメ」には、「これで最後の子どもであってほしい」という願いが込められていたとも言います。)があったことから比べれば、意外とましなのかもしれないとも言います。
この名前の「オリジナリティ」を「アイデンティティ」と結びつける意見もありましたが、しかし、そもそも名づけは単に他の子どもと区別するための記号であることが原点にあることも指摘されました。
こうした個性と名づけを関連付けるのは近代特有の行為ではないかということに関しては、『徒然草』の時代から名前に個性を付与する習慣があったことが示されており、必ずしも近代特有ではないだろうという意見も挙げられました。
この何某かのオリジナリティといった「意味」と区別のための「記号」が重なるのかのような論点に至ります。
たとえば、世の中には漢字も名前もまったく同じ人が存在することがあります。
その関係性においては、区別をどうつけるのか、その人の固有性をそう識別できるのか。
それに関して、「ワタナベ」さん同士は、お互いが同じ名前だからこそ、自分の固有性をアピールし合うようになるものだという意見が挙げられます。
たとえば、「邊」なのか「邉」なのかから、住んでいる場所や屋号などのように相手と同じ呼び名だからこそ、お互いの違いを示し合うのだそうです。
このように「名づけ」が他者と区別するために用いられようと、個性を示すものとして用いられようと、その社会の常識や慣習を完全に無視するわけにはいかないようです。
そもそも、名前に対して意味はないという杉っちですらも、既に「男の子だったら「太郎」、女の子だったら「花子」」と決めていた段階で、従来のジェンダー意識に規定されています。
ジェンダー問題に敏感であるはずの杉っちですら、「名づけ」にこのような意識を働かせるのはどうなのか。
たとえば、なぜ男の子であった場合に「花子」ではだめなのか。
これに対しては、やはりその子が名前でいじめられては困るという親としての配慮が働いたと言います。
昨今の子供のいじめの8割は「名前」に関係するという話題も挙げられました。
いかに個性や親の願いを込めて「名づけ」ようとも、まったく社会で流通する記号性を無視するわけにはいきませんし、それは親のコモンセンス(常識感覚)が問われるというものでしょう。
名前でいじめられるような社会なんてあっていいはずもありません。
その意味で言うと、名前の中性化というのも視野に入れていく必要があるのかもしれません。
外国語には男性名詞・女性名詞・中性名詞という、ややこしい区分がありますが、これにもやはりジェンダー的なイメージが付与されていると言いますが、そのような名前の中性化という研究は世の中にあるのでしょうか。
たとえば、「純」という名前は割と女性でも男性でも汎用性があります。
その点、杉っちはおじいさんの名前をとって「かおる」という名前も考えたそうです。
でも、これは微妙なところなのかもしれません。
しかし、名前のジェンダーフリーを目指す教育は検討されてしかるべきでしょう。
「小野妹子」も存在したことですし。
すると、これまでの議論が「名づける側」の視点で議論されていたわけですが、「名づけられる側」からの視点に移して議論が展開しました。
これに関しては、実の息子から名づけに関して反発されたことがあるという経験談を挙げて下さった参加者がいました。
そこにもやはり、子ども同士のからかいや嫌がらせの背景があったようです。
また、名前がその子の性格に与える影響についても話題に挙げられました。
もちろん、その名前に合った性格に成長する子もいるでしょう。
でも、その一方でその名前のイメージとは異なる正確に育ってしまった場合はどうなんでしょう。
その名前は重荷でしかないのは想像に難くありません。
その点、その人自身を表す「名づけ」としては「あだ名」の方が適しているかもしれません。
もちろん、「あだ名」なんて、たいてい適当につけられるものですが、親近感やその人をなじみ深い存在として名指す際には、「あだ名」の方を用いるものではないでしょうか。
あだ名とは、自分の正しい名に、その周囲の人たちとの関係性がプラスされた名前であるという意見も挙げられました。
さらに、「襲名」についてもその家の歴史などのエネルギーがプラスされるものだとも言います。
また、「名づけ」に関しては漢字の意味に由来を求める意見がある一方で、音からその人の本質を言い当てようとする作用があるという意見も挙げられました。
「ア」、「イ」、「ウ」といったそれぞれの音には、その人ふさわしいエネルギーが現れているとのことです。
これに関しては、別の参加者から音にはそれぞれのイメージを与える力があるとの意見も挙げられます。
別の参加者もまた、「ガンダム」を例に上げ、このことを立証しようとします。
それによれば、「ガ」や「ダ」などの濁音が入る音には「力強さ」があり、「ム」には「ママ」というイメージに近い包容性があり、それが小学生に魅力的な名前として浸透したと言います。
実際、その制作者もあるインタビューで、「ガンダム」のネーミングに関して、「銃(ガン)と自由(フリーダム)」を組み合わせた意味が込められていると、深読みした評論を差し出されたときに、そんなのは事実無根だとして猛反発したことがあるというエピソードも紹介されました。
「名づけ」がその対象に潜んでいる本質的な何かを言い当てるものだとしたら、しかもそれが「音」と連関しているかもしれないという仮説は面白い視点だと思います。
これは、「名づけ」に対して意味はなく、その名前に意味を与えていくのは、むしろその本人の生きざまだという仮説からすれば、真逆の仮説とも言えるでしょう。
というのも、制作された「ガンダム」には、「ガンダム」としか言いようのないその存在を言い当てた「名づけ」であって、それが「ダグラム」や「コンバトラーV」であってはいけないわけです。
モノに対する固有名というのは、このようにそれ以外の何ものではない「名づけ」という意味で、単なる分類のために機能的に用いる「名づけ」とは別種の見方を提示しているように思われます。
ただし、「ガンダム」がモノであるのに対し、人間の名づけがこうしたモノに対する仕方と同じにできないのは、人間は成長する過程で変化していく存在に他ならないからです。
だから、途中で自分の名前が気に入らないから改名するケースも出てくるでしょう。
これを人間の「被投機性」という観点から、自分の名前は自分で名づけられない以上、それを背負いつつ、そこから自分の存在を自分で新たに切り開いていくのが人間であるという意見が挙げられました。
人間は両義的で与えられた名前を生きなければならないけれど、同時にそれを請け負いつつ、自分は自分だとして、自分で自分の名前を自分のものにならしめていくということです。
その点、襲名というのは先祖代々の名前を、その家の歴史を背負わされつつ、それに拘束されるだけでない自分自身の性を生き抜くことはいくらでも可能であるということです。
ただし、これに関しては「姓-名」の両方をアイデンティティにしているのか否かという質問が挙げられたことと関連しますが、男性と女性の性に対するアイデンティティのとり方は、それぞれの生き方において大きく異なるものになりそうです。
ある参加者は、社会に出て働く際に、突然夫の姓を名乗ることに抵抗感を覚え、旧姓を用いることにしたと言います。
そして、その時に自分自身を名づけたことで本当の自分に戻った感覚を覚えたと言います。
これに関して、ペンネームのように、その場面場面に応じて自分の人格や役割を振り分けることもできるだろうとの意見も挙げられました。
終盤、固有名詞と一般名詞との名づけの違いが議論されました。
名前は他者との識別機能だとする意見に対して、同姓同名がいると不安を覚えるという意見が挙げられました。
この不安が何に基づくものなのかといえば、それは自分自身の固有性が奪われるように感じるからでしょう。
しかし、名前とはそのようなものなのか。
さらに言えば、一般名詞と区別された固有名詞としての名前の意味とは何か。
これに関して、仕事上、契約や取引をする際には識別機能としての名前の方が助かるが、プライヴェートな人間関係においては固有名が精出してくるという意見が挙げられます。
「ワタナベジュン」という記号は、仕事上は識別機能として役に立ちますが、しかし、親密な関係においては、この「ワタナベジュン」というその唯一性を名指すものとして働くというわけです。
後者において名前は、刑務所や住民ナンバーにおける単なる数字とは異なる「顔をもつ」存在として、その人を指し示すということでしょう。
最後に「名づけとは何か?」という最初の問いに戻りいくつかの意見を挙げてもらいました。
「名前には意味がある」という面と「名前は記号である」という両面を持つという定義、「名づけは一般名詞を端緒として固有名詞に変えるものである」という定義、「名づけとは個性を際立たせる作用」という定義、「名づけとは外側からの一方的なラベリングであるが、それは変えることも可能である」という定義。
さて、陽樹くんの前途を祝して、彼が背負わされた名前とともにどのような人生を歩むのか、哲カフェの参加者一同心から見守りたいと思います。