「田舎の学問より京の昼寝」
都では見聞の利益が極めて多いので
都に住むバカ者も田舎の利口者より賢い
という言い伝え
田舎で勉強するより
都でなまけている方が
かえって見聞が広くなるとも
「田舎の利口より京の馬鹿」と同義
単に「京の昼寝」ともいう
むかしから各宗の本山学寮が多く
学僧も集まっているので
地方の寺での一人の勉強より
京都の本山暮らしの昼寝生活の方が
仏教の知識が身につくというのがいわれ
こうしたことから
「お山(比叡山)の昼寝、田舎の学問」とも
【ああ、京都に遊びにいきたや うずうずしてきた 来週は行くぞ ~ 碁会所のない京都は、少し気の抜けたコーラである の巻】
今春以降、二つの囲碁サロンが閉店し
自然と足が遠のいている京都。
過去2度 計6年半棲んだので
人生の十分の一は、かの地で寝起きした計算なのだが、
残り十分の九のうちでも「近くに棲んで遊びにいく方」が
わたしは存外好きなのである。
そのワケはいろいろあれど、一つは「京ことば」にあり。
地方出身者には、けっこう敷居が高い。
多少は抑揚を真似ても、使いこなせない。
だから、棲むより遊びに行く方が、気楽なのである。
◇
例えば、こんな具合である。(おんなことば)
「ごめんやす、お居やすか」
「へえ、どなたはんどす」
「隣の『漂流人間』どすけど」
「まあまあ、よーこそ」
「主人がちょっと旅行してきたお土産で、
ほんのあらあらしいもん(粗末な物)どすけど
お口に合いまっしゃろか」
「すんまへんなあ。いつも、いつも えーもん(良い物)ばっかりもろて」
「滅相もない、ほんのおしるし(形だけの物)で」
「まあ、ちょっと、おあがりやしとくりゃすな、
ぶぶ(お茶)でも入れまっさかい」
「へえ、おーきに、ほんなら」
「おてぼんで すんまへんけど、おひとつどうぞ」
「ほな、遠慮なしに呼ばれまっさ。おーきに」
「えーもん いただきまして、いつももらい捨てで すんまへん。
これ、ほんのおためどすけど……」
なあんて、ね
敷居が高いどすな
みやこ暮らし