不思議活性

自分史 1


 ブログを「自分史」として登録したものの、平凡な人生といえば言えるので書けることはそんなにないかもしれません。でもそれなりに、自分自身を見つめ直すことが出来ればそれで良いのではと。私は中学生になってから高校と自閉的というか、自分だけの世界に閉じこもることが多かったように思います。自分だけの世界がなにかというと、マンガ本の世界で、昭和40年代は、少年サンデー・少年マガジン・少年キングの名前が思い浮かびます。検索してみると、昭和40年代は、第2期高度成長期で、未曾有の経済成長を記録した時代である。 42年に人口は1億人を突破し、47年に沖縄が返還され、万国博覧会(45年)や札幌冬季オリンピック(47年)の開催は、経済成長の象徴となった。 とありました。
 自分は高校を卒業して、就職もしないで家で鬱屈としていて遠い親戚を頼って東京へいったのが、昭和48年(1973年)の頃です。それから、再びふるさとに戻って来た昭和56年(1981年)。七年程の東京での一人暮らしが青春といえば青春だったのです。1981年の出来事といえば、ローマ法王が初来日、日劇閉館、レーガン米大統領暗殺未遂、マザー・テレサが初来日、チャールズ皇太子・ダイアナ妃婚礼、福井謙一がノーベル化学賞受賞、ロッキード事件丸紅ルート公判で榎本敏夫の妻・榎本三恵子が「ハチは一度刺したら死ぬ」と田中角栄元首相の5億円受領を裏づける証言、中国残留孤児47名が初の来日 。などとありました。
 

 では、私の東京での青春時代から、想い出をひとつふたつ書いてみようと思います。ひとりぼっちな自分が今は音信不通となってしまった一人の友との出会いを。その友Mとは初めてどこでどうして出会ったのか思い出すことが出来ません。まだまだ人生がなにかわかっちいない冴えない自分。そのMのふるさとへ行った想い出です。私は長野県の生まれでMは隣の新潟県の生まれでした。東京の街中で出会った21歳の自分は、Mの誘いでMのふるさと新潟の岩船群の淡島に行ったのです。長野県人の自分が海といえば新潟の上越の海でした。それが、同じ新潟の海ですが、淡島の海はエメラルドで透明で、感激でした。21歳の自分はまだ泳ぐことが出来なかったので(泳げるようになったのはそれから数年たった頃です)浮き輪につかまって、MとMの彼女と三人で透明な海に浮かんだのです。あのときの淡島でのエメラルドの海は、まさしく自分にとって忘れられない想い出です。

 その想い出の淡島でのスケッチが、私のはじめての詩集『黄昏はやさしく扉をひらく』(非売品)の表紙となったのです。今では、他の人に読まれるのが恥ずかしくてとても見せられるものではないですが、そのB5判の表紙絵だけは気にいっている私です。






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