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第十章 能為(のうい)(能く為しうるか)
営魄(えいはく)に載り一を抱いて、能く離るること無きか。
気を 専 らにし 柔 を致して、能く嬰児の如きか。
滌除玄覧(できじょ げんらん)して、能く疵(きず)無きか。
民を愛し国を治めて、能く知ること無きか。
天門開闔(かいこう)して、能く雌(し)を為せるか。
明白四に達して、能く知ること無きか。
之を 生 じて、之を畜す。
生じて有せず、為して恃(たの)まず、 長じて宰(わか)たず。
是を玄徳と謂う。
この章は、道を行うには、生理的、心理的に相関連した肝要なる心の働きが必要であることを説き、その理想的な働きは、玄徳であるということを説く。
道を行うものは、精神が、統一していなければならぬものであるが、精神を統一するためには、無の心になることが最もよいのである。
道を行う者の精神活動は、偉大な働きをするものであり、常に立派なものであるが、その方法は、人を先に立てて、自分のことは後にする、という方針を取っているということである。
従って、天地自然の雌性、すなわち、愛情をもって総てのものを育て、庇護し、自らは、先に立つということはなさぬ、という法則に同化することができるのである。
営は、身体を指す。魄は、頭のなかにあって、精神活動をさせるところの、脳神経細胞組織を指す。一は、道、法則、或は、無の心を指す。
滌除は、洗い清めることをいう。玄覧の、玄は、幽遠霊妙の意、玄覧は、幽遠霊妙なるものをも見ることのできる心の意。
明白四達は、天地自然の理に対しても、四囲の情勢に対しても精通していることを指す。