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皆さんは、ヤーマとニヤーマ、つまり、悪いことをしないことと良いことをすることとは、同じではないかと言うかも知れません。しかし、嫌いでないということが必ずしも好きなことを意味しないように、悪いことをしないことと良いことをすることとの間には、大きな違いがあります。
それでは、ニヤーマとは何を意味しているのでしょうか。それは簡単に言えば、モノの原理にしたがわないだけではなく、魂の原理、神の愛の原理にしたがって行動するということです。つまり、すべてのものをあるがままに見て大きな心で受け入れ、それらが成り立っていくように自分をそのなかに与えていく・・・・、いわば神の行為を日常生活のなかで実践していこうというものです。
第一は清浄です。身体を清潔に保つことはもちろん、それだけではなく、つねに心も清浄な状態を保つことができるようにしておかなければなりません。
この清浄ということには、霊的な非常に深い意味があるのですが、ここでは心がいつも平静で穏やかな状態でいられるように、自分の行為をコントロールすることだと考えてください。
次は知足、つまり足るを知るということです。
もともと人間という存在がいかに小さなものであるか、限界を持ったはかないものであるかを知り、それゆえにほかの人間やモノと相互に依存しなければ生きていけないことを本当に理解できれば、自分だけが必要以上に豊かになりたいという欲を持つことが間違いであることを自覚できます。
限界を持った小さくはかない存在の人間としての分に応じて、一生懸命に与えられた役割を果たすこと。それを通して足るを知ること。知足とは、そんな意味なのです。
三番目は、苦行です。
宗教的な修行といえば、断食をしたり、寒い時期に水行をしたりといったイメージが強いかも知れません。しかし実際には、苦行は宗教的修行の一部にすぎません。その苦行とは、おなかがすくから何か食べたい。寒さから身を守りたい・・・・・。つまり自己保存というモノの原理にしたがおうとする自分の心を抑え、あえて苦しみに身をさらすことによって、欲望の面でも感情の面でも、存在の面でも、自己愛的な生き方を積極的に否定していこうとすることなのです。
次は、ヤーマ、ニヤーマのなかでも一番社会性の強いもので、共感ということです。
相手と同じ気持ちを持つということですが、そのために大事なことは、自分の立場で相手のことを考えるのではなく、相手の立場に立つということでしょう。相手の身になることです。
社会的な奉仕活動や発展途上国への援助など、世の中にはいろいろな善意の行動があります。しかし、これが相手の身になって、つまり共感なしで行われる場合にはむしろ迷惑になることもあります。相手が本当に必要としていることがわからないから、言ってみれば、相手にとっては単なる押しつけになってしまうわけです。
いずれにしても、共感を持つ、相手の身になるということは、現在の自分を捨ててより高い次元と合一するための日常生活のなかの訓練だと言えるでしょう。
ニヤーマの最後は、神の真似をすること、宇宙創造神への祈りです。
神は万物のなかにあって、ただそれが成り立つように働いています。人々のほとんどすべてが、そのことを感じることができないだけなのです。神はつねに皆さんとともにあって、皆さんの存在が成り立つように働いていてくれている。しかしだからといって、神がその代償を求めるようなことは絶対にありません。もし、願いをかなえる代償を求めるような神があったとしたら、それは偽物の神、つまり神を名乗る次元の低い霊なのです。
もちろん、人間は神と同じように振る舞うことはできません。どうしても限界があるでしょう。しかし、このような神の行為を日常生活のなかで真似ること、本当の愛を実践しようと努力することが一歩でも神に近づく道なのだとヨーガでは教えています。
そしてもう一つ、大事なことは祈ることです。限界を持った小さな自分が、大きな神の愛を行えるような存在になれるよう、宇宙創造神に向かって祈ることです。人間の霊的成長は、人間だけの力ではできません。存在を支えてくれる神の助けが必要です。そのような祈りを通じて常に心を神に向けていること。それがヤーマ、ニヤーマを実践する基本なのです。
・以上、『現代社会と瞑想ヨーガ』日常生活のすべてが瞑想よりの抜粋でした。自分の心が目に見えないように神様も見ることはできません。でも、神様を感じる・目には見えないがいつも神様は私たちを見守っていてくれるのだと思えることが出来たら、人の心・魂は癒されるのだと思う自分です。
なぜなら、この創造された宇宙・森羅万象みな神様の現われではでないのでしょうか。これからも、日常生活においてヤーマ・ニヤーマを心掛け日々の瞑想により、本当の自分に出会うため、きょうという一日を過ごしていけたらな。また、いろいろな角度から瞑想について、何か書けるときは書いていきたいと思います・・・・。