不思議活性

賢治童話と私 風野又三郎 九月八日

 

   九月八日

 その次の日は大へんいい天気でした。そらには霜の織物のような又白い孔雀のはねのような雲がうすくかかってその下を鳶が黄金に光ってゆるくわをかいて飛びました。
 みんなは、
「とんびとんび、とっとび。」とかわるがわるそっちへ叫びながら丘をのぼりました。そしていつもの栗の木の下へかけ上るかあがらないうちにもう又三郎のガラスの沓がキラッと光って又三郎はおとといの通りまじめくさった顔をして草に立っていました。
「今日は退屈だったよ。朝からどこへも行きゃしない。お前たちの学校の上を二三べんあるいたし谷底へ二三べん下りただけだ。ここらはずいぶんいいところだけれどもやっぱり僕はもうあきたねえ。」又三郎は草に足を投げ出しながら斯う云いました。
「又三郎さん北極だの南極だのおべだな。」
 一郎は又三郎に話させることになれてしまって斯う云って話を釣つり出そうとしました。
 すると又三郎は少し馬鹿にしたように笑って答えました。
「ふん、北極かい。北極は寒いよ。」
 ところが耕一は昨日からまだ怒っていましたしそれにいまの返事が大へんしゃくにさわりましたので
「北極は寒いかね。」とふざけたように云ったのです。さあすると今度は又三郎がすっかり怒ってしまいました。
「何だい、お前は僕をばかにしようと思ってるのかい。僕はお前たちにばかにされぁしないよ。悪口を云うならも少し上手にやるんだよ。何だい、北極は寒いかねってのは、北極は寒いかね、ほんとうに田舎くさいねえ。」
 耕一も怒りました。
「なした、うななどそだら東京だが。一年中うろうろど歩ってばがり居でいだずらばがりさな。」
 ところが奇体なことは、斯う云ったとき、又三郎が又俄かによろこんで笑い出したのです。
「もちろん僕は東京なんかじゃないさ。一年中旅行さ。旅行の方が東京よりは偉いんだよ。旅行たって僕のはうろうろじゃないや。かけるときはきぃっとかけるんだ。赤道から北極まで大循環さえやるんだ。東京なんかよりいくらいいか知れない。」
 耕一はまだ怒ってにぎりこぶしをにぎっていましたけれども又三郎は大機嫌でした。
「北極の話聞かせなぃが。」一郎が又云いました。すると又三郎はもっとひどくにこにこしました。
「大循環の話なら面白いけれどむずかしいよ。あんまり小さな子はわからないよ。」
「わがる。」一年生の子が顔を赤くして叫びました。
「わかるかね。僕は大循環のことを話すのはほんとうはすきなんだ。僕は大循環は二遍へんやったよ。もっとも一遍は途中からやめて下りたけれど、僕たちは五遍大循環をやって来ると、もうそれぁ幅が利きくんだからね、だからみんなでかけるんだよ、けれども仲々うまく行かないからねえ、ギルバート群島からのぼってたったときはうまくいったけれどねえ、ボルネオから発ったときはすっかりしくじっちゃったんだ。それでも面白かったねえ、ギルバート群島の中の何と云う島かしら小さいけれども白壁の教会もあった、その島の近くに僕は行ったねえ、行くたって仲々容易じゃないや、あすこらは赤道無風帯ってお前たちが云うんだろう。僕たちはめったに歩けやしない。それでも無風帯のはじの方から舞い上ったんじゃ中々高いとこへ行かないし高いとこへ行かなきゃ北極だなんて遠いとこへも行けないから誰でもみんななるべく無風帯のまん中へ行こう行こうとするんだ。僕は一生けん命すきをねらってはひるのうちに海から向うの島へ行くようにし夜のうちに島から又向うの海へ出るようにして何べんも何べんも戻ったりしながらやっとすっかり赤道まで行ったんだ。赤道には僕たちが見るとちゃんと白い指導標が立っているよ。お前たちが見たんじゃわかりゃしない。大循環志願者出発線、これより北極に至る八千九百ベェスター南極に至る八千七百ベェスターと書いてあるんだ。そのスタートに立って僕は待っていたねえ、向うの島の椰子の木は黒いくらい青く、教会の白壁はめへしみる位白く光っているだろう。だんだんひるになって暑くなる、海は油のようにとろっとなってそれでもほんの申しわけに白い波がしらをふっている。
 ひるすぎの二時頃になったろう。島で銅鑼がだるそうにぼんぼんと鳴り椰子の木もパンの木も一ぱいにからだをひろげてだらしなくねむっているよう、赤い魚も水の中でもうふらふら泳いだりじっととまったりして夢を見ているんだ。その夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでいるんだ。青ぞらをぷかぷか泳いでいると思っているんだ。魚というものは生意気なもんだねえ、ところがほんとうは、その時、空をのぼって行くのは僕たちなんだ、魚じゃないんだ。もうきっとその辺にさえ居れや、空へ騰って行かなくちゃいけないような気がするんだ。けれどものぼって行くたってそれはそれはそおっとのぼって行くんだよ。椰子の樹の葉にもさわらず魚の夢もさまさないようにまるでまるでそおっとのぼって行くんだ。はじめはそれでも割合早いけれどもだんだんのぼって行って海がまるで青い板のように見え、その中の白いなみがしらもまるで玩具のように小さくちらちらするようになり、さっきの島などはまるで一粒の緑柱石のように見えて来るころは、僕たちはもう上の方のずうっと冷たい所に居てふうと大きく息をつく、ガラスのマントがぱっと曇ったり又さっと消えたり何べんも何べんもするんだよ。けれどもとうとうすっかり冷くなって僕たちはがたがたふるえちまうんだ。そうすると僕たちの仲間はみんな集って手をつなぐ。そしてまだまだのぼって行くねえ、そのうちとうとうもう騰れない処まで来ちまうんだよ。その辺の寒さなら北極とくらべたってそんなにちがやしない。その時僕たちはどうしても北の方に行かなきゃいけないようになるんだ。うしろの方では
『ああ今度はいよいよ、かけるんだな。南極はここから八千七百ベェスターだねえ、ずいぶん遠いねえ』なんて云っている、僕たちもふり向いて、ああそうですね、もうお別れです、僕たちはこれから北極へ行くんです、ほんのちょっとの間でしたね、ご一緒いっしょしたのも、じゃさよならって云うんだよ。もうそう云ってしまうかしまわないうち僕たち北極行きの方はどんどんどんどん走り出しているんだ。咽喉もかわき息もつかずまるで矢のようにどんどんどんどんかける。それでも少しもつかれぁしない、ただ北極へ北極へとみんな一生けん命なんだ。下の方はまっ白な雲になっていることもあれば海か陸かただあおぐろく見えることもある、昼はお日さまの下を夜はお星さまたちの下をどんどんどんどんかけて行くんだ。ほんとうにもう休みなしでかけるんだ。
 ところがだんだん進んで行くうちに僕たちは何だかお互の間がせまくなったような気がして前はひとりで広い場所をとって手だけつなぎ合ってかけて居たのが今度は何だかとなりの人のマントとぶっつかったり、手だって前のようにのばして居られなくなって縮まるんだろう。それがひどく疲れるんだよ。もう疲れて疲れて手をはなしそうになるんだ。それでもみんな早く北極へ行こうと思うから仲々手をはなさない、それでもとうとうたまらなくなって一人二人ずつ手をはなすんだ。そして
『もう僕だめだ。おりるよ。さよなら。』
とずうっと下の方で聞えたりする。
 二日ばかりの間に半分ぐらいになってしまった。僕たちは新らしい仲間と又手をつないでお互顔を見合せながらどこまでもどこまでも北を指して進むんだ。先頃僕行って挨拶して来たおじさんはもう十六回目の大循環なんだ。飛びようだってそれぁ落ち着いているからね、僕が下から、おじさん、大丈夫ですかって云ったらおじさんは大きな大きなまるで僕なんか四人も入るようなマントのぼたんをゆっくりとかけながら、うん、お前は今度はタスカロラのはじに行くことになってるのだな、おれはタスカロラにはあさっての朝着くだろう。戻りにどこかで又あうよ。あんまり乱暴するんじゃないよってんだ。僕がええ、あばれませんからと云ったときはおじさんはもうずうっと向うへ行っていてそのマントのひろいせなかが見えていた、僕がそう云ってもただ大きくうなずいただけなんだ。えらいだろう。ところが僕たちのかけて行ったときはそんなにゆっくりしてはいなかった。みんな若いものばかりだからどうしても急ぐんだ。
『ここの下はハワイになっているよ。』なんて誰か叫さけぶものもあるねえ、どんどんどんどん僕たちは急ぐだろう。にわかにポーッと霧の出ることがあるだろう。お前たちはそれがみんな水玉だと考えるだろう。そうじゃない、みんな小さな小さな氷のかけらなんだよ、顕微鏡で見たらもういくらすきとおってとがっているか知れやしない。
 そんな旅を何日も何日もつづけるんだ。
 ずいぶん美しいこともあるしさびしいこともある。雲なんかほんとうに奇麗なことがあるよ。」
「赤くてが。」耕一がたずねました。
「いいや、赤くはないよ。雲の赤くなるのは戻りさ。南極か北極へ向いて上の方をどんどん行くときは雲なんか赤かぁないんだよ。赤かぁないんだけれど、それあ美しいよ。ごく淡いいろの虹のように見えるときもあるしねえ、いろいろなんだ。
 だんだん行くだろう。そのうちに僕たちは大分低く下っていることに気がつくよ。
 夜がぼんやりうすあかるくてそして大へんみじかくなる。ふっと気がついて見るともう北極圏に入っているんだ。海はあおぐろくて見るから冷たそうだ。船も居ない。そのうちにとうとう僕たちは氷山を見る。朝ならそのかどが日に光っている。下の方に大きな白い陸地が見えて来る。それはみんながちがちの氷なんだ。向うの方は灰のようなけむりのような白いものがぼんやりかかってよくわからない。それは氷の霧なんだ。ただその霧のところどころから尖ったまっ黒な岩があちこち朝の海の船のように顔を出しているねえ。
『あすこはグリーンランドだよ。』僕たちは話し合うんだ。いままでどこをとんでいたのかもう今度で三度目だなんていう少し大きい方の人などが大威張でやって来ていろいろその辺のことなど云うんだ。
『そら、あすこのとこがゲーキイ湾だよ。知ってるだろう。英国のサア、アーキバルド、ゲーキーの名をつけた湾なんだ。ごらんそら、氷河ね、氷河が海にはいるねえ、あれで少しずつ押されてだんだんはみ出してるんだよ、そしてとうとう氷河からきれて氷山にならあね。あっちは? あっちが英国さ、ここはもう地球の頂上だからどっちへ行くたって近いやね、少し間違えば途方もない方へ降りちまうよ。あっち? あっちが英国さ。』なんてほんとうに威張ってるんだ。僕たちはもうほとんど東の方へ東の方へと北極を一まわりするようになるんだ。この時だよ、僕らのこわいのは。大循環でいちばんこわいのはこの時なんだよ、この僕たちのまわるもっと中の方に極渦といって大きな環があるんだ。その環にはいったらもう仲々出られない。卑怯なものはそれでもみんな入っちまうよ。環のまん中に名高い、ヘルマン大佐がいるんだ。人間じゃないよ。僕たちの方のだよ。ヘルマン大佐はまっすぐに立って腕を組んでじろじろあたりをめぐっているものを見ているねえ、そして僕たちの眼の色で卑怯だったものをすぐ見わけるんだ。そして
『こら、その赤毛、入れ。』とこう云うんだ。そう云われたらもうおしまいだ極渦の中へはいってぐるぐるぐるぐるまわる、仲々出ていいとは云わないんだ。だから僕たちそのときは本当に緊張するよ。けれどもなんにも卑怯をしないものは割合平気だねえ、大循環の途中でわざとつかれたとなりの人の手をはなしたものだの早くみんなやめるといいと考えてきろきろみんなの足なみを見たりしたものはどれもすっかり入れられちまうんだ。
 そのうちだんだん僕らはめぐるだろう。そして下の方におりるんだ。おしまいはまるで海とすれすれになる。そのときあちこちの氷山に、大循環到着者はこの附近に於て数日間休養すべし、帰路は各人の任意なるも障碍は来路に倍するをもって充分の覚悟を要す。海洋は摩擦少きもかえって速度は大ならず。最も愚鈍なるもの最もかしこきものなり、という白い杭が立っている。これより赤道に至る八千六百ベスターというような標もあちこちにある。だから僕たちはその辺でまあ五六日はやすむねえ、そしてまったくあの辺は面白いんだよ。白熊は居るしね、テッデーベーヤさ。あいつはふざけたやつだねえ、氷のはじに立ってとぼけた顔をしてじっと海の水を見ているかと思うと俄かに前肢で頭をかかえるようにしてね、ざぶんと水の中へ飛び込むんだ。するとからだ中の毛がみんなまるで銀の針のように見えるよ。あっぷあっぷおぼれるまねをしたりなんかもするねえ、そんなことをしてふざけながらちゃんと魚をつかまえるんだからえらいや、魚をつかまえてこんどは大威張りで又氷にあがるんだ。魚というものは本当にばかなもんだ、ふざけてさえ居れば大丈夫こわくないと思ってるんだ。白熊はなかなか賢いよ。それからその次に面白いのは北極光オーロラだよ。ぱちぱち鳴るんだ、ほんとうに鳴るんだよ。紫だの緑だのずいぶん奇麗な見世物だよ、僕らはその下で手をつなぎ合ってぐるぐるまわったり歌ったりする。
 そのうちとうとう又帰るようになるんだ。今度は海の上を渡って来る。あ、もう演習の時間だ。あした又話すからね。じゃさよなら。」又三郎は一ぺんに見えなくなってしまいました。みんなも丘をおりたのです。


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