不思議活性

立原道造詩集と 1

 

   1

 私は、時々、24歳でこの世を去った、詩人・立原道造 (1914年~1939年)の詩集を開きます・・・。振り返ると、24歳の自分は人生の右も左もわからない、自分自身がいったい何のために生きているのか自分探しの旅の途中でした・・・・。それが道造の倍は生きてきたある日・・・・。

 星が無数に輝く澄み渡る秋の空も、いつの間にか冬に移り変わっていました。半世紀を生きてきた私が「立原道造詩集」に再び巡りあったのは、私が追分の地を勤務先として何年かたった頃でした。私は、立原道造が追分にかつて住んでいくつかの詩を書いていたことをまったく記憶からなくしていたのでした。それが、ふとしたことで、再び、立原道造に関する本を読み直して、いつのまにか、私は追分の地をひとつのふるさととして受け入れていたのでした。・・・彼は、彼の書き続けた奇妙な抒情的小説の中の人物のように、こちらをも、その独特な夢想の中へ、いや応なしに誘い込んでしまう・・・とあるように、私も、道造の詩を読むと、道造が書いた詩をいつの間にか、自分のこととして、受け入れていたのです。
 それは、2004年・平成16年9月の浅間山の噴火が契機でした。私は、生まれてはじめてサラサラと舞ってくる火山灰を、追分の地で目の前にしたのです。その噴火を契機に、立原道造の詩を、改めて近しいものと感じたのです。
 
 道造詩集『萱草に寄す』の「はじめてのものに」の詩が次のように始まっていたのです。

 ささやかな地異は そのかたみに
 灰を降らした この村に ひとしきり
 灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
 樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

 浅間山が噴火して、私は追分の空に舞う灰を見て、道造詩集の・・・灰はかなしい追憶のやうに 音立てて 樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた・・・の世界に入り込んでいたのです。それからです。道造の詩を読むと、それぞれの詩がとても近しく感じられはじめたのです。
 
 また、次の文。 I・Tへの私信より。
 
 信濃高原は澄んだ大氣のなかにそばが咲き、をすすきの穂がなびき、遠い山肌の皺が算へられ、そのうへ青い青い空には、信じられないやうな白い美しい雲のたたずまひがある。わづかな風のひびきに耳をすましても、それがこの世の正しい言葉をささやいている。そうして僕は、心に感じていることを僕の言葉で言ひあらはそうとはもう思わない。何のためにものを言ひ、なぜ訊くのだろう。あんなことを一しやう懸命に考えることが、どこにあるのだろう。Tよ、かうしているのはいい気持ち。はかり知れない程、高い空。僕はこんなにも小さい、さうしてこんなにも大きい。

 の文から読み取れる、追分の自然の情景が、素直に自分の心に入ってくるのです。そう、道造の詩は私には、ひょうひょうとして風にゆれる草花のように、あるいは、夕暮れどきの雲であったり明けゆく薄紅色の東の空模様であったりする四季の移ろいのように、つかもうとしてつかめるものでなく、その時々に受け取るひとつの情感なのだと。

  詩集『優しき歌 Ⅰ』 「憩やすらひ」―薊のすきな子に―より。

風は 或るとき流れて行つた
絵のやうな うすい緑のなかを、
ひとつのたつたひとつの人の言葉を
はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

ありがたうと ほほゑみながら。
開きかけた花のあひだに
色をかへない青い空に
鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

気づかはしげな恥らひが、
そのまはりを かろい翼で
にほひながら 羽ばたいてゐた……

何もかも あやまちはなかつた
みな 猟人も盗人もゐなかつた
ひろい風と光の万物の世界であつた。

・立原道造詩集を手にしたのは、人生半ばの頃です。私が改めて詩を書くことの契機となりました。そして、リタイアした私は、過ぎ越しかたの自分をゆっくり振り返ることが出来るようになりました。時に、過去を振り返りつつ、今という時を、しあわせな気持ちですごせたらな・・・・。
 続きは次回に・・・・。

 

 


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