横山茂樹君、君も逝ってしまいましたね。もう一度お話をしたかったのに残念です。心残りのことも多かったでしょうに、民医連の医療機関を増やす基礎を作ったという大きな仕事を残したと聞いています。安らかにお休み下さい。
古川高等学校に入って横山茂樹君に出会った。その頃の私はパスツールやコッホ、野口英世、北里柴三郎などの伝記をよんで医学を目指したいと考えていた。高校1年生の時生物学の授業が面白かった。そんな時横山茂樹君と出会ったのだった。横山君の父親は中新田町の外科医として周辺町村の中心的存在であった。
2学期に入ったある日、私が医者になりたいと思っていると彼に話すとそれなら一度家に遊びに来ないかと誘ってくれた。学校帰りに彼の家へ寄ることになった。彼の家に着くとちょうどその直前に何かの手術が終わって父親は別室で休んでいたのか病室へ行っていたのか診察室には誰もいなかった。
私はある種のあこがれのような思いでじろじろと見回していた。次に手術室へ案内された。ここでも私は感動しながら周囲を見ていた。そしてふと手術台の脇の床を見ると、血の付いたガーゼがトレーに山のようになっていた。私は身体がガタガタ震えだしてその場所から逃げ出したい気持ちになった。彼は平然と「後片付けがまだだったようだな」と言って次の回復室へ連れて行ってくれた。
私は、東京空襲の時に数え切れないほどの人の死体を見てきたのに人の血を見るのは初めてだった。それで飛んだ醜態をさらしてしまったのだ。彼は彼の部屋へ案内して、「後片付けをしてないところを見せて悪かった」と言ってわびてくれた。しかしそれは意図的だったかも知れない。医者になると言うことはそれ相当な覚悟がいるんだぞと言外に教えてくれたのかも知れなかった。
横山茂樹君は非常に小柄だったので朴歯の足駄をはいていた。当時の古川高校生は制服制帽に革靴というのが普通だったが、私は靴を買えないのでいつも下駄履きだった。
彼の家を別の機会に訪ねたとき、きれいなお姉さんと妹さんがいた。ドキマギしながら彼の部屋に通されると、彼は勉強していた。私の顔を見ると「ちょうど休憩しようと思っていたところだったのでレコードを聞こうか」と言って蓄音機を見せてくれた。そこで初めて聞いたのがパテイ・ペイジの「テネシーワルツ」だった。私は感動してしまった。この前きたときには室内を見なかったが、室内には00全集とかその他いろんな本が沢山並んでいた。私の家の生活状態とは雲泥の差があると思い知らされた。
彼は高校卒業後、東北大学医学部に入学し卒業後、民医連に加入して診療方法の改革に貢献したという。彼の論文を1編もらったことがある。確か胃の手術に関するものだったと思う。
私は医学関係へ進むことにはならなかったが、私の研究で何人かの人の病気改善に貢献することが出来た。この話はいつか機会を作ってこのブログに書くことがあるかも知れない。
横山茂樹君、君の名前は多くの人の心の中に生きています。どうぞ安らかに眠りを続けて下さい。