たわいもない話

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余命一年「がん」闘病記

2011年03月05日 14時07分50秒 | 余命1年「がん」闘病記

            『義 恕 (よしゆき) の 死 』 

     

“ビュービュー”外が見えなくなるほどに荒れ狂う吹雪、窓ガラスはバリバリに凍りつき、庇には氷柱が簾でも立てたように垂れ下がっていた。

この冬、二度目の大寒波が山陰地方を襲った1月29日午後3時15分、余命一年と宣告されていた養父、義恕(よしゆき)は荒れ狂う、外の天候とは裏腹に、自宅のベッドの上で、妻、子、孫、曾孫たち、多くの家族に見守られながら90年の人生の幕を静かに閉じた。

義恕はこれまで殆んど病気らしい病気はしたことは無かったが、昨年の2月に突然自宅で倒れ、救急車で医大に搬送され精密検査を受けた。

病名は末期癌、癌は内臓の数カ所に転移し、その上、かなり進行し義恕の年齢から考え、手術で癌を取り除くことは体力的に難しく、手術をした場合、かえって体力の衰弱を招き、寿命を縮めるのではないかとの診断を医師は下した。

養母、勇子(ゆうこ)が、この診断結果を医師から聞き帰ったことから、義恕の一年に亘る闘病生活が始まることになった。

義恕の余命は残り一年、この医師の所見は直ちに、勇子から私の妻、誠恵(まさえ)そして高校の養護教諭の二女、礼香(あやか)名古屋で看護師をしている三女、仁美(ひとみ)の直系親族の三姉妹に知らされ、礼香と仁美は日本海沿いの古い町並みの残る、我が家に慌ただしく帰郷することになった。

そして勇子と三姉妹はこれからの義恕の治療方法について、手術か投薬治療にするのか重大な決断を下す話し合いをすることになった。

義恕の生死に関わる重大な決断の話し合い、私が加わらないのは非情な夫と妻に誤解されかねない、しかし私はあえて話に加わるのは控えた。

「養父の生死を決める話に、たとえ夫であろうと口出しは出来ない。血を分けた親族で決断しないと後で後悔することになる、貴方たち三姉妹とお母さんとで話合って決断しなさい」

私は誠恵に自分の本音を素直に伝えて話には加わらず、勇子たちがいかなる決断を下すのかを陰ながら見守った。

一日や二日で結論が出るはずもなく、礼香と仁美は仕事をいつまでも休むわけにもいかず、しかたなく結論が出せないまま一旦帰ることになった。

二人が帰ってからの数日間、礼香と仁美は幾度となく誠恵との電話で、義恕のその後の経過やら容態を聞きながら勇子を交え、長い話し合いを続けていたが二週間くらい過ぎた或る夜、ようやく結論を導き出したようであった。

無論、私たち三人の連れ合いも義恕の容態は知っていたが、勇子と三姉妹の出した結論には全面的に協力することだけを約束して、一切の口出しは控えることにしていた。

日の経つのは早いようで遅いようで早いもの、この事実が昨日の事のようでもあり、また数十日も前の出来事にも感じられ、すっかり時間の感覚が麻痺してしまっていた。

そんな或る日、私たち家族三人の食事が終わるのを待って、誠恵がテーブルに眼を落しながら“ぽっり、ぽっり”と重い口を開いた。

「お父さんも、もう89と歳だし手術しても治る見込みは薄い、それなら手術して体を衰弱させるよりは薬で治療にし、少しでも長生きしてもらいたいと思う」

誠恵のひとこと一言は、胸を突き刺すような寂しげな声、自分たちの決断を自らも確認するかのように話を続けた。

「それに、仮に手術して胃に管を通したり、人工呼吸器を付けるようになったら、本人を苦しませるだけで何も良いことはないと思う、それよりは残りの人生、体力のあるうちに好きなことをさせてあげた方が幸せではないかと思う」

瞼には薄っすらと涙を浮かべて話す誠恵の傍らで、85歳になる勇子もうな垂れて聞いていた。

「それであなた達は後悔することはないよなー」

私が誠恵と勇子に眼をやると、老いの目立ち始めた勇子の頭には地肌が見え、ふんわりとした産毛のような白髪の中に僅かに黒髪が残っていた。

「これからお父さんがいろいろと世話になり、苦労を掛けると思いますがよろしくお願いします」

勇子は顔を上げると、私の顔色を窺うように直視した。

その年輪を重ねた眼差からは、深い悲しみの奥に得体のしれない慈愛に満ちた光を放って私の胸に突き刺さった。


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