冬物のブルゾンを羽織って,完全な防寒仕様で北陸に来たのだが,気温は20℃あり,はっきり言って,この日は福井でも金沢でも,深夜まで上着は必要なかった。
桜も咲き始めており,東北よりも遙かに暖国であることを改めて認識した。
旅行をするときは,必ずガイドブック(かつては実業之日本社のブルーガイドパック,最近は専らマップルマガジン)を事前に熟読し,現地入りする前にイマジネーションを高めておくのだが,今回は年度末の〆の時期に当たり,前日まで激務をこなしてきただけに,そんな余裕も無く,何の予備知識もなく金沢に来たことになる。
ま,駅の南に金沢城跡があり,その隣が兼六園であること,犀川東岸が片町といって金沢随一の歓楽街であること程度しか,知らなかった。
なので,駅の観光案内所で立派なパンフレットと地図を貰う。
時刻も5時近いし,取り敢えず藩祖である前田利家を祀る尾山神社を見て,投宿することにした。
駅前に宿を求めても良かったのだが,せっかくなので街の空気を味わうために,敢えて片町に宿を取った。
金沢城や兼六園,そして市内随一の繁華街である香林坊にも徒歩圏内というのも大きい。
駅舎を出る。
巨大な「もてなしドーム」が目を引く。
何でも雨傘がモチーフなのだそうだが,これだけでも金沢が北陸随一の都市であることを象徴している。
駅前通を南下する。
香林坊や片町まで,バスの便は極めて良いが,街の空気を吸うために敢えて歩く。
それにしても,何と近代的で明るい街並みであることか・・・。
駅前から,R157との分岐点である武蔵が辻までは,巨大なマンションやホテルが建ち並ぶが,東京や大阪のような大都市特有の圧迫感はないし,人も多くはない。
適度に近代的だし,一歩入ると後述するような江戸時代の街並みが程度良く保存されている。
それが何とも魅力的で,私はすっかりこの街が気に入ってしまった・・・。
今まで途中下車(一度は白山蕎麦を食しただけ,今一度は夜行待ちで本を買っただけ)だけというのが,実に勿体なく感じられた。
金沢の街としての起源は,中世の加賀一向一揆の時代に遡る。
当時,現在の城跡に当たる尾山御坊がそのむ中心であり,門前町として発祥したと言われる。
金が出たので,金を洗う沢というのが語源だそうだ(我が街にも,金洗沢なる地名があった)。
周知の通り,一向一揆を駆逐したのは織田軍であり,北陸方面の司令官だった柴田勝家の姻戚にして与力の一人であった佐久間盛政によって尾山御坊は落とされ(天正8年),盛政はこの地に,尾山城を築いた。
そして,賤ヶ岳の戦いによって,勝家と盛政が滅んだ後は,やはり勝家の与力にして,秀吉の盟友でもあった前田利家が封じられる。
城下町としての基礎は,この利家の時代に築かれたと言える。
前田利家(1538-99)については,以前家系絡みで述べたことがあった。
利家があと数年存命だったら,関ヶ原も江戸幕府もすんなりいったかどうか・・・と言われるぐらいの大物だ。
家紋は梅鉢紋-菅原氏である。
どうでも良いことなのだが,私の母方の家紋が梅鉢で,姓も家康の母の実家と同じで,菅原姓ということで,何となく親しみを感じてきた武将である。
尾張国海東郡荒子(現名古屋市中川区荒子)の生まれで,幼名犬千代(近世前田家では,代々世襲された),字(あざな)は孫四郎,及び又左衛門であるから四男である。
幼少時から信長に仕え,荒小姓の1人として武芸を磨く。
多分,悪童だった信長と一緒に,あちこちを駆け回り,悪さをしたのであろう。
やがて,信長の親衛隊とも言うべき赤母衣衆として,数々の戦功を立てる。
特に,槍の名手であったことから,「槍の又左」の異名を取り,織田軍きっての武辺者であったとも言える。
勿論,単なる一騎駆けの武功を争うだけの男ではなく,北陸方面郡では柴田勝家麾下のNo.1とも言うべき存在で,戦の駆け引きも抜群だったらしい。
特に,北陸時代の僚友であった佐々成政との末盛城を巡る戦いでは,見事に成政軍を撃破。
同時期の小牧・長久手の戦いでは,秀吉軍が敗れているので,この一勝の価値は大きい。
前後するが,秀吉とは岐阜時代に屋敷が隣同士で,奥方同士も仲が良く,家族ぐるみの付き合いをしていたという。
これが,後に賤ヶ岳の戦いの際の分水嶺となった。
既述の通り,利家は北陸方面軍の勝家麾下である。
しかし,秀吉とも仲がよいことは,勝家も知っていた。
利家は,兵5,000率いて賤ヶ岳へ出陣するが,突如として兵を引き,居城である越前府中城(武生市-今は越前市か)に籠もってしまう。
そこへ,賤ヶ岳で敗れて北の庄へ向かう勝家が立ち寄り,これまでの労をねぎらって,湯漬けを所望したという。
勝家とも秀吉とも親しい利家であるから,賤ヶ岳での去就については,さぞ悩んだことだろうが,家を守るために秀吉に付いた。
このことを悪く言う者が殆ど居ないのは,やはり利家が天晴れな武者であり,誠実な人格者として知られていたからであろう・・・。
現代の金沢が,このように近代的で洗練されつつも,城下町の面影を色濃く残して発展したのは,やはり利家の力が大きいと思う。
やはり,たいした人物である。
その利家を祀る尾山神社は,武蔵の辻から続く商店街から少し西に入ったところにあった。
観光客もちらほら見られたが,夕刻のせいかその数もまばらで,ゆっくりと境内を見て回ることが出来た。
西洋風の神門が目を引くが,勿論明治期のものだ。
回遊式の庭園もあり,これらが無料で見られるというのも嬉しい。
そして,利家の騎馬像(赤母衣衆時代の姿)と,奥方であった於松の方(芳春院)の像もあった。
よもや・・・と思って見ると,やはり11年前の大河ドラマに際して建てられたものだった。
ま,北の庄城跡のお市の方と三姉妹の像よりは,遙かに周囲に馴染んでいたのだが・・・。
・・・ということで,宵闇が迫ってきたので,宿へ向かう。
金沢の町歩きのBGMは,渡辺俊幸作曲による「利家とまつ」のテーマが相応しい・・・。
思えば,渡辺俊幸の父は渡辺宙夫(代表作は,やはり「ガンダム」か),その父は渡辺浦人(私は,交響詩「野人」しか知らんが)と,三代にわたる作曲家の家系あった・・・。
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