先月だったか、中国北京にディズニーランドの偽物があるというニュースを見て、「さすがコピー天国中国」と感心もし、呆れもしたのであるが、その時ふと、ガジ丸という名前は もしかして、既に誰かが使っているのではないかと気になった。で、インターネットで、「ガジ丸」を検索してみた。他にもいるにはいた。が、どうも伝統的なもの、または、既に多数の周知にあるものでは無いみたいなので、安心する。
ならば、ケダマンはどうだろうかと「ケダマン」で検索する。あった。しかも、これは有名みたいである。あの永井豪さんの漫画の主人公の名前みたいである。永井豪さんの漫画は『ハレンチ学園』、『デビルマン』しか知らない私なので、これは初耳であった。
既に多くの人が知っているケダマンという名前を、別のキャラクターに使っても良いのだろうかと調べてみた。・・・それは良いみたいである。ただし、永井豪さんのケダマンに似せたり、話の内容を似せたりするのは良くないみたいである。
永井豪さんのケダマンと私のケダマンは見た目に大きな違いがあり、性格も違う。名前の由来も、彼は獣で、こっちは毛玉である。名前の読みは一緒でも、その意味が違うわけである。見た目と意味が違えば、それはもう別個のもの。けして偽物では無い。
物真似番組を若い頃は時々見ていたが、今は(たぶん10年以上前から)ほとんど見ていない。出演者の出し物に対し、「だから何」と思ってしまうようになったからだ。とは言っても、物真似をする芸人にたいしては、上手い人には感心し、コロッケのようにデフォルメして楽しませる芸人に対しても職人だなあと思う。「だから何」と私が思うのは、似てもいなければデフォルメも下手で、物真似を技術では無く、ギャグとして「笑わせれば勝ち」と思っている出し物が多くなったからである。つまらないのだ。
真似るは「学ぶと同源」と広辞苑にあった。「他人のやることを見て、覚えて、身に付ける」ということであろう。弟子が師匠を真似て芸を身に付けるということ。
「真似る」と同じような意味に「似せる」がある。「似せる」は「互いに同じさまに見えるようにする」ということ。真似るは技術や芸を習得するという目的があるが、似せるはそこまで踏み込まない。「似せる」はまた、「偽物」の語源ともなっている。中国北京のディズニーランドや、ミート○○○の牛肉コロッケのようなものを指す。
「真似て得る」、つまり、「学んで得る」ものは生きる力であり、「似せて得る」ものはお金ということになる。どちらが幸せかは個人の感性だが・・・。
友人に昔のグループサウンズのコピーバンドをやっている者達がいる。彼らの場合はむろん、似せてそのもののふりをするわけでは無いので、「真似る」の方である。しっかり技術を真似て演奏を楽しんでいる。彼らが楽しむ分には私も何の文句も無い、むしろ、良いことだと思っている。「頑張ってね」とも思う。ではあるが、その演奏を私は聴きたくない。好きじゃない音楽だからだ。来月、彼らの演奏会がある。聴かなければならないはめになった。彼らは「演奏していて楽しい」かもしれないが、私はグループサウンズ音楽が好きという真似ができない。まあ、じっと我慢の2時間となろう。
記:2007.7.6 島乃ガジ丸