先週「学童疎開」の話を書いたが、「戦世の終わる頃」と銘打って、お年寄り方からその頃の話を聞き集めていたが、体調不良のため、断念せざるを得なくなった。今までに集めた話はもう1つあり、せっかくなので発表したい。お概ねは口述のとおりであるが、私の勝手な脚色も少し混ざっている。疎開しなかった学童の話。
喜瀬キヨ 昭和6年(1931年)6月15日、首里山川に生まれる。
○キヨの物語
日本軍はキヨの記憶では1941年頃から周りにいた。その頃、キヨは第二国民学校5年生。学校に軍人がいて、槍を持たされ、槍をつく練習をした。
キヨの家の近くにも日本軍が駐留していた。キヨの記憶では第32軍主力の武部隊であるが、おそらく実際は、その分隊の1つと思われる、押切曹長が隊長だったとのこと。
押切曹長は優しくて、ウチナーンチュにも理解があって、キヨの家族とは、キヨの母がヤマトゥグチ(倭語)が上手だったこともあり、仲良くしてくれていた。
その頃、キヨの家はまあまあ裕福だった。父親は山を買ってその山にある樹木を薪にして売って儲けていた。日本軍とはあれやこれや物々交換で交流していた。
※世の中の動き
1944年7月19日
沖縄県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令。沖縄の食糧・用地・施設を軍が確保する際、沖縄住民、民間人が足手まといになるからであった。
○キヨの物語
戦後しばらくして(1945年末から明けて1946年初めあたり)、キヨは捕虜収容所で同級生のチヨコに会った。どうやら、その収容所はキヨの住んでいた近辺の人たちが収容されているようで、近所に住んでいたオジサンオバサンたちの姿もチラホラ見られた。ところが、キヨの同級生やその前後の子供たちはほとんどいない。
「何でかねー」とキヨとチヨコは顔を合わせるたびに不思議がっていた。しばらくして、ある同級生のお母さんから、キヨたちの学校の生徒たちのほとんどは学童疎開で1944年8月に疎開船「対馬丸」に乗船したとのこと。九州へ向かっている途中、対馬丸は撃沈され、多くが犠牲になったとのこと。ということで、キヨの同級生やその前後の子供たちはほとんどいないとのことであった。
キヨは女の子であったが、近所で評判になるほどのウーマクー(暴れん坊)であった。
「お前のようなウーマクーがみんなと一緒に船に乗ってヤマトゥへ行くなんて、船の中でどんな迷惑をかけるか、ヤマトゥへ行ってどんな迷惑をかけるかと思うと恐ろしい。お前は他所に出せない。ここにいろ。」ということで、キヨは疎開船に乗れなかった。そのお陰で、キヨは対馬丸の悲劇に会わずに済み、生き延びることができた。
1944年10月10日 キヨ14才小学校5年生
ある日の夕方、キヨが空を見上げていると、夕日の沈む方向から飛行機がたくさんやってきた、やってきて、キヨのいる、山川近辺でUターンして、那覇方面へ戻る。たくさんの飛行機は那覇へ戻ると爆弾を落とした。たちまちのうちに那覇一帯は火と煙に包まれた。これが後に十・十空襲と呼ばれるもの。その時、首里に爆弾は落ちなかったが、戦争を始めて意識したのはこの十・十空襲の時であった。
※十・十空襲について
1944年10月10日、
第1次攻撃隊は日本軍の北飛行場に到達し、攻撃を開始した。小禄飛行場なども次々と攻撃を受けた。アメリカ艦隊は、その後も第4次攻撃隊までを午前中に発進させ、午後にも第5次攻撃隊を繰り出した。宮古島など他の島への攻撃を合わせると、10日の出撃機数は延べ1396機に達した。これらは全て空母からの空襲による。
まず、アメリカ軍機は制空権奪取のため飛行場を攻撃目標とした。第2次以降は、那覇港や運天港などに停泊中の艦船も攻撃目標となり、第4次と第5次の空襲は主に市街地を狙って行われ、市内各所に火災が発生した。第4次空襲の段階で民間消火活動では手の施しようがなくなり、住民は全面退避を開始した。
それまで沖縄を含む南西諸島は本格的な空襲を受けたことが無かった。最も被害の大きかったのは那覇市で、翌11日まで続いた火災により当時の市内市街地のうち9割が焼失し、死者は255名にのぼった。本島全体では330人が死亡。
離島では、宮古島で民家13軒が半焼している。本土への空襲は同年6月の八幡空襲を皮切りに既に始まっていた。被害は概ね焼夷弾によるもの。
※世の中の動き
1945年3月23日
米艦隊、艦砲射撃で沖縄本島攻撃(沖縄戦開始)。
首里にも艦砲射撃による攻撃があったのはおそらく、この後間もなくと思われる。
4月1日
米軍が北谷、読谷に上陸。
4月8日
嘉数高地で戦闘開始。
4月24日
嘉数高地、陥落。
4月26日
前田高地、
5月6日
前田高地で戦闘開始。
5月12日
シュガーローフで戦闘開始。
5月18日
シュガーローフ、陥落。
○キヨの物語
首里に艦砲射撃があるようになったのは1945年3月の終わり頃、艦砲射撃の弾丸は音で近くに落ちるか、遠くへ行くかが判ることをキヨは学んだ。
喜瀬家の傍には湧水があり、壕もあった。
戦闘は激しく、アメリカ軍は大きな被害を受けつつも徐々に日本軍本部のある首里城へと迫っていった。前田高地は首里城の北西側、シュガーローフは首里城の南西側、上下から首里城に迫っていったのだと思われる。
前田高地から首里城に向かう途中に経塚というがある。ある日(5月6日以降)押切曹長から「経塚からトラックの音が聞こえる、米軍がそこまで来ている、あなたたちも逃げなさい。上には上がれないから南に逃げなさい」と助言される。
5月22日
首里城、陥落。
押切曹長の親切な助言があったが、喜瀬一家は首里城が陥落するまで首里にいった。首里城がなくなってから逃げた。押切曹長の助言に従い東風平へ逃げた。
逃げる時期としてはもう遅かったので、周りに死体や負傷している人が、民間人も軍人も合わせ多くいた。「水ください」と願う負傷兵も多くいた。「水をください」というのは最後のお願いだと教わっていた。死ぬつもりの人たちがたくさんいたようだ。
黍畑の中で「助けて」と叫ぶ妊婦もいた。可哀想だったが助ける者は誰もおらず、おそらく、その妊婦さんはお腹の子供共々間もなく死んだであろう。
逃げる時は残っていた隣組で一緒に行動した。ところが、東風平の高台ではぐれる人が出た。仲間の1人、一高女卒の秀才チルちゃんが見えなくなった。4~5日後、チルちゃんは我々が隠れているガマに連れてこられた。チルちゃんは気が振れていた。4~5日の間に、精神が絶えられない恐ろしい目に合ったんだと想像できた。
家で養っていたヤギは日本軍に全て(6匹)盗られたが、自分たちも逃げる途中、盗みはやった。日本軍のガマ(陣地)から米を盗んだこともある。食い物は他にカエルなども掴まえてエナ(汚い)洗いして煮て食った。きれいに洗う余裕は無かった。
東風平では日本軍の食料庫の場所が分かったのでそこから米を盗んで食べた。
※世の中の動き
6月23日
第32軍司令官牛島中将、摩文仁で自決、日本本土で「義勇兵役法」発布。
6月24日
米軍、掃討戦を開始。
7月2日
米軍 沖縄戦終了を宣言。
8月15日
日本、無条件降伏。
9月7日
守備軍の残存部隊と米10軍の間で降伏調印式(沖縄戦の最終的な終結)
以上、参考文献からの沖縄戦の経緯と、喜瀬キヨさんの語りの口述筆記。
記:2019.8.25 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
『沖縄の戦争遺跡』沖縄平和資料館編集、沖縄時事出版発行