高校3年の時、多くの家庭でそうだと思うが、卒業後の進路について本人と親がどーのこーのと話し合いをする。私は学校の勉強が大嫌いだったので卒業後は働きたいと考えていた。働いて給料を貰って自分の自由になるお金が欲しいという理由もあった。
自分の自由になるお金があれば、運転免許を取得し、車を買い、女を誘ってドライブに行き、食事をし酒を飲み、カーモーテルで気持ちいいことしたいと思っていた。自由になるお金があれば、歓楽街のいかがわしい場所へも行き放題だと思っていた。
ただ、どんな仕事がしたいのか?と自問しても答えは漠然としていた。どの会社へ就職したいという具体的な考えは全く無かった。なので、両親と進路の話し合いとなった時、「とりあえず大学へ行ってその間に自分に向く仕事を考える」という案に対抗できる案を私は提示することができなかった。なので、ずるずると流れて行った。
1浪目はバイトをし、受験は失敗。2浪目の時、「あんた、琉大に願書出さなかったのはわざとでしょ!」と、母に怒りの顔で問い詰められた。「うっかりしてたんだよ」と答えたが、もちろん意図的にやったことであった。それでも母は諦めなかった。
何が何でも息子は大学へという頑固さに息子はとうとう根負けして、3浪もした後、大学へ入ったが、その1年後の春休みに帰省した折、「俺にはやはり勉強は向かないよ、大学を辞めたい」と母に言った。「どうして!」、「どうしても」といったやりとりがあった後、母は悲しい顔をして、目を潤ませて「お願いだから卒業はして、これが私の一生の最後のお願いだから」と言った。それに対しては、息子は嫌と言えなかった。
嫌な事を強要するのは親としていかがなものかと、今でも私は思っているが、何故「何が何でも大学へ」だったのか、母の生前に訊いておくべきだったとは思う。
大学を卒業して、沖縄に帰って、父母と一緒に暮らすようになったが、私はもう「働いて給料を貰って自分の自由になるお金が欲しい」という意欲も小さくなっていた。「テキトーに生きていればいいさ」となっていた。テキトーな会社に就職した。
就職すると母はまた、息子に意見を言い始めた。「結婚しなさい」と。私は断った。しかし、母はしつこかった。だけどそんなある日、「母さん、母さんはもう既に一生の最後のお願いをしている。俺はもう母さんのお願いは聞かない」と言うと、母は黙り、それ以降は「結婚しなさい」と直接的な言い方は無くなった。私が大学に入って一年後の、あの春の「お願いだから卒業はして・・・云々」と言ったことを母も覚えていたのだ。
実家の売却のため去年から家財道具などの整理をしている。その際、母の残したもの、写真や文書類がたくさん出てきた。それらの内、「これは大事にしていたんだろうな」と思われるものはパソコンに取り込んでデータ化し、まとめて冊子にした。
母の書類の中には母の記入による未完成の家系図があった。それを見た時、「母の一番欲しかったもの」は私の学歴などでは無く、高い給料を得ることでも無く、その家系図に記入された私の横に並ぶべき名前とその下に続くべき名前、及び、弟夫婦(子ができなかった)の下に続くべき名前だったんだろうなと思った。母はそこへ「神の子」と記入していた。母にとってはいるべきはずの孫。見せられなくてゴメン、と合掌。
記:2013.9.6 島乃ガジ丸