徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

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大阪の地名と成り立ち ② -難波宮②-

2009年11月18日 11時30分11秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

大阪の人は、古くは、大阪にも都があったことをご存じの方も多いのですが、他府県の方には、あまり御存じのない方もおられるようです。

でも、その都が2度も大阪にあったということは、案外大阪の方でもご存じないのではないでしょうか?

でも、この説も案外不確かなものなのですが・・・
最初に都があったのは、大化の改新直後に孝徳天皇によって築かれたというもので、この時に築かれた都は「前期難波宮」(長柄豊崎宮)と言われ、日本古来の建造物と想像されておりますが、都として実体を備えていたのか疑問視されています。

しかし、実際に長柄とか豊崎という地名は、大阪駅の北側から淀川あたりにありますが、その後の調査では、前期難波宮跡も、現在の難波宮跡公園とほぼ同じ場所とされているそうです。

その1世紀後の天平16年(744年)に恭仁京(くにきょうー京都府木津川市)から、再び?大阪の地に都が遷され、これを「後期難波宮」と呼ばれています。

  今日の絵は、「京都 永観堂の多宝塔」です F8号

この天平年間は、災害や疫病がはやり、聖武天皇は、たびたび遷都を行っており、難波宮も1年ほどで紫香楽宮(しがらきのみやー滋賀県甲賀市)から平城京へと都が戻されました。

そもそも、この地を古くから「難波」と呼ばれたのは、どうしてなのでしょうか?
その根拠とされているのが「日本書記」の「神武東征伝説」なのだそうです。
そこには・・・・
「まさになにわ崎にいたるとき、速き潮ありてはなはだ急きに会いぬ、よって浪速国となす。また浪華という。いま難波という」という記述があることが、由来とされています。

他にも多くの説があります。
それについては、次回に述べます。