時代劇の映画の楽しみの一つは、日本の昔の風景の美しさを見ることにあります。
この映画も例外ではなく、竹やぶを抜けると百姓のわら葺の家の佇まいや闘いの行われた人の背ほどのススキは、この映画を象徴する風景でした。
忠臣蔵は、一般的には、吉良邸討ち入り後、浪士が切腹して終わるのですが、そこで死ぬことを許されずに、指名のために生き抜く二人の「武士」の物語です。
「武士」とは、どのようなものかを、この物語は語っているのです。
が、現代人にとって、この通りの「武士」の生き方には、賛否両論あると思います。
それはそれとして、当時の「武士」は、死ぬことを惜しまない一方、簡単に死ぬことを許されず、命を賭けて主命を果たさなければならない事もあったのです。
寺坂吉右衛門(佐藤浩市)は、討ち入り後大石内蔵助(片岡仁左衛門)から、真実を後世に伝え、浪人の遺族を援助せよと指名を受けます。
もう一人、指名を与えられたのは瀬尾孫左衛門(役所広司)で、彼は討ち入り前にその使命のために蓄電します。
その使命こそが、この映画のテーマを作り上げたものです。
使命とは、内蔵助の隠し子を守り抜くということを、内蔵助から秘密裏に直接使命を受けていました。
討ち入りの前に、その使命を遂げるため蓄電したことが、事情を知らない他の浪士をはじめ、多くの藩士から反感を受け、武士として恥ずべき行為として、憎まれます。
指名をおびて16年経ったところから、映画の物語は始まります。
内蔵助の隠し子は、やんごとなき人の子供として、瀬尾孫左衛門が手塩をかけて育てます。
その娘が、大商人茶屋四郎次郎(笈田ヨシ)の息子(山本耕史)に見初められますが、育ててもらった孫左衛門に思いを寄せており、この恋のやりとりを人形浄瑠璃とともに話は進みます。
正直、この浄瑠璃の語りは、もう少し短い方が良かったように思うのですが・・・・
内蔵助の隠し子”可音(かね)”が、嫁げば、孫左衛門の使命は終わるのです。
そんななか、かっては深い友情で結ばれていた二人(吉右衛門と孫左衛門)が、再会しますが、命惜しさに逃げた裏切り者とかたや討ち入りをしたものの最後には切腹出来ず、死にそこないとして後ろめたい思いをしている者は、お互いの思いが計れず、感情のまま打ち合いをします。
婚礼の当日、その吉右衛門がお供に加わります。
それをきっかけに、元赤穂の家臣たちが続々とお供を申し出してきます。
たった一人で背負ってきた重い使命が、ここで多くの元藩士の喜びとなり、裏切り者というレッテルが無くなる瞬間でした。
が、使命を達成した武士は、活かされた命を、惜しむなく果たします。
討ち入りから16年、映画では、ここで忠臣蔵の物語は終結するとなっていますが、まだまだ続いていくと思います。 それだけ、この物語は、多くの要素を含んでいます。
この映画が、アメリカで公開されるようですが、忠臣蔵の話が分からなければならないと思うのですが・・・・・もっとも最近の日本人でも若い人は、ストーリ自体を知らない人が多いようです。
真実の程は兎も角、日本人としては、知って欲しい話の一つです。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉がありますが、その死は犬死であってはならないのです。
「死を命じられた時に、悔いが残らないように、生きること」なのです。
要は、今をどのように生きるかが、大事なのではないでしょうか?