先日の続きです。 その後の赤穂は、浅野家はどうなったのでしょうか?
赤穂城は、元々池田輝政が播磨一国を領し、輝政の五男池田政綱が分地して、赤穂に三万五千石で入りましたが、弟の輝興が乱心し改易され、その後に常陸笠間にあった浅野家の分家の浅野長直が五万三千石で入りました。
赤穂城 復元された赤穂城大手門
三代目の内匠頭長矩が刃傷で改易され、その後永井家が一代で移封、森家が美作津山から二万石で入り、11代で幕末を迎えました。
森家は、あの有名な森蘭丸の末弟が美作に十八万石を得、美作津山藩主の長継の8男の長直が赤穂に転封されたものです。
浅野家は、あの刃傷事件で内匠頭長矩が切腹し、弟の浅野大学長広は、三千石の幕府旗本寄合に列していましたが、1701年に閉門され、1702年に本家広島浅野家にお預けとなりました。
赤穂城の復元完成予想図 赤穂城天守台跡
しかし、1709年にお預け御免となり、1710年には五百石の旗本寄合に列せられ、大名ではないが、赤穂浪士の切腹から6年後にお家再興されました。
赤穂天守台から本丸御殿跡を望む、現在発掘作業し復興計画中です。
五万三千石にしては、広大且つ立派なお城のようでした。
その後、浅野家は、11代続きましたが11代の浅野長楽が昭和61年(1986年)に病死し、世嗣なく、再び昭和の時代に、浅野家は断絶しました。
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