昨日の続きです。
浅野家は、内匠頭の弟が大名ではないが、旗本として取り立てられ昭和まで続きましたが、吉良家は、その養子の義周(よしちか)で絶えてしまいます。
吉良家は、名門中の名門の出であり、上杉家と大きな繋がりがありました。
と言う事で、上杉家についてチョット述べて見ます。
上杉家の家紋 米沢城の堀
上杉家は言わずと知れた上杉謙信を祖先として、関が原以前は、越後・越中・加賀・能登・佐渡で120万石を領していましたが、関が原の責を負い、米沢に30万石に減俸され、その後三代綱勝が急死し、一時は断絶の危機の陥りますが、吉良上野介の長男が四代目を継ぎました。しかし、15万石に半減させられました。
吉良上野介の室は、上杉二代目の定勝の娘という関係があり、上杉家との関係が出来ました。
その上野介の長男の上杉綱憲の子(幼名 春千代)が上野介の養子に入り吉良義周と名乗りました。
刃傷事件後、家督を継いだのが、16歳でした。
そして、討入り後、18歳で領地没収され、諏訪安芸守(高島藩)にお預けとなり、その地で21歳の若さで死去しました。
彼の名誉のために言わせて頂くと、討入りの時は、奮戦し目に血が入り、気を失ったと言う事でした。
世相では、悪役になっていますが、本当のところは、分からないのが真相ではないのでしょうか?
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