徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

映画「のぼうの城」

2012年11月06日 19時26分33秒 | 映画・社会

この映画で、リーダーとは、なにが必要なんか・・・色々考えさせられました。

主人公の忍城の城代の成田長親(野村満斎)とそこを攻める石田三成(上地雄輔)との人物の違いが勝敗を分けたようです。

この話の大筋は、ほぼ史実に基づいて描かれているそうです。
まず、この物語の起こった時代背景から物語は始まります。

   

天正18年(1590年)豊臣秀吉(市村正親)の小田原討伐の時、忍城主成田氏長(西村雅彦)は、北條氏に加勢したため、石田三成の大軍に攻められ、その挙句、水攻めにあいます。

なぜ三成は、水攻めにしたのかが、この物語の大事なところであり、三成の人物像が浮き出てきているのです。

城主の氏長は、到底勝てる戦ではないので、留守居の城代長親やその幹部に、石田三成がくれば開城するように言い、氏長は小田原に向かいます。

成田長親といえば、智も勇もないが、あるのは領民から慕われているということだけです。
一緒に畑仕事をしたり田楽を踊ったりし、それを領民は、”でくのぼう”を略して”のぼう”様と呼ばれて慕われていました。

その"のぼう様"のまわりには、剛腕・豪傑の「和泉」(山口智充)、漆黒の魔人「丹波」(佐藤浩市)、自称、軍略の天才「靱負」(成宮寛貴)、それに領主の娘男勝りの「甲斐姫」(榮倉奈々)などがこの物語を進めて行きます。

一方、石田三成は、秀吉子飼いの武将ながら、今まで軍功もなく、何時も後方支援での活躍であった為、他の武将から疎んじられていました。
そこで、2万の軍勢を与え、500人で守っている忍城を攻めさせ、軍功を立てさせようと秀吉が画策します。
と言っても、既に忍城の城主の氏長は、寝返っており、勝敗は闘う前からついていたのですが・・・・
そのことは、三成のみが知らされておらず、まともに忍城を力ずくで攻め立てます。

三成の使者が、忍城の留守居城代に降伏を進めに行きますが、高飛車の使者に憤慨する”のぼう様”は、戦を決意します。

城内の人や村人は既に、闘わずして城を明け渡すことを知っていましたが、あの”のぼう様”が言うのなら一つ戦ってやろうと結束します。

秀吉に三成を支えるように命を受けた大谷吉継(山田孝之)は、忍城の士気の高さに警戒心を抱きますが、なかなか落ちない城に業を煮やした三成は、地形から、かの秀吉が備中高松の水攻めを思いだし、ここも水攻めにすることを決意します。

 

このままでは、本丸が沈んでしまうと危機感を持った長親は、ただ一人で武器も持たずに小舟を漕ぎだし、三成軍の前で踊りだします。

船の上で、田楽踊りが出来るのは、この野村萬斎しか出来ないのではないでしょうか?
あのとぼけた、ひょうきんな演技も、ピッタリとした役回りでした。

その騒ぎの中、百姓たちは、堤を潰しにかかり、決壊させます。

2万の大軍が、500の軍勢と3000余りの百姓たちに完敗します。

2万の大軍を後ろ盾にして、独断専行し、他の武将から疎んじられた三成。

百姓からも”のぼう様”といわれ、強くないが、”人気”だけはある男が立ち上がると、不思議と軽んじていた武将も、あのバカを皆が好いているのだ・・・と言わしめた長親。

三成と長親。
どちらの武将も、今まで武功は立てておらず、これと言って戦の経験も知識もなかったようです。
2人の違いは、周りの人に慕われているかどうかだけです。



実は、忍城のある埼玉県行田市には、何年か前に訪れています。
その時、忍城にも行ったのですが、どうも思いだせません。
忍城のその後の様子などは、また後日に調べて見たいと思います。


武庫川のコスモス畑、満開となりました。2012年

2012年11月05日 09時44分55秒 | 独り言・社会・ニュース

今年で10年目となりました武庫川の河川敷のコスモス畑は、今年も満開となりました。

 9月に種を蒔いたコスモス畑も、11月に入り、ほぼ満開を迎えました。

昨日11月4日は、日曜日と言うことでもあり、多くの人出がありました。

550万本のコスモスが一面に咲き乱れている様子は、毎年この時期に見ているのですが、毎年新たな気持ちで見ることが出来ます。

  

 場所など詳細は、下記の尼崎市のHPでご覧下さい。

http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/flower/082kosumosu.html

 

  
   武庫川を渡る山陽新幹線を背景に、競い合って咲いています。

  

  会場の様子などを動画でどうぞ・・・・・

 


日本の城、もう一つの名前 ③ ー松山城=金亀城ー

2012年11月03日 11時09分09秒 | 城郭への展望

一口に松山城といっても、全国に沢山の松山城があります。
一般的に松山城と言えば、四国の伊予国、愛媛県にある松山城のことでしょうが、他には備中国松山城とか武蔵国の松山城など計10城あります。

ここでの松山城は伊予国の松山城の話をします。
別名は、金亀城とか勝山城と言われています。

金亀城とは、その名の通り、堀に金の亀がいたとか言われており、良くある縁起物で価値観を上げる名前です。
また、勝山城という名前は、これもお城の別名によくある、城のある場所、山の名前なのです。
勝山と呼ばれる丘陵の山頂に天守が築かれています。

松山城は、現存する12の天守のある城の一つで、姫路城と同じく、大天守と小天守、南隅櫓、北隅櫓を渡り廊下で結んだ連立式で、日本三大連立式平山城です。もう一つの連立式平山城は、和歌山城です。

  

この城の始まりは、1602年、伊予国10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの軍功により20万石に加増され、この平山城の築城に着手しました。

この時、正木城と呼ばれていましたが、加藤嘉明が、この地を「松山」と名付けたそうです。
その後、城主は、蒲生家や松平家などに代わり、幕末は、松平定昭が老中職となり、親藩として、明治維新を迎えます。

  

明治維新後は、土佐藩が松山城を受領、保護します。
明治3年には、松山城三の丸、そのご2年後には、二の丸も焼失します。

天守など35棟の建造物が国宝に指定され、他21棟が重要文化財に指定されています。

伊予松山と言えば、俳句「春や昔 十五万石の 城下かな」で正岡子規も知られています。

  
    2010年10月に訪れました。 天守から松山市街地を望みます。 
  お城に登城するには、徒歩でも登れますが、僕はロープウエイで登りました。

 

 

 


鉄道会社ビジネスと経済 ⑦ ー球団保有ー

2012年11月01日 10時17分03秒 | 鉄道のよもやま話

鉄道会社は、鉄道収入だけでは、やっていけません。
何らかの副業をしています。

以前は、西鉄、東急、阪急、南海、近鉄、阪神そして国鉄も球団を保有していました。
しかし、今は、西武と阪神のみとなってしまいました。
これは、なぜなのでしょうか?

日本でのプロ野球球団の保有のメリットは、社名の露出増加による知名度の上昇による宣伝広告だけではなく、本業である鉄道を発展させるために持っていました。

つまり、球場までファンを輸送するためによる売上の増加と路線の価値を高めるのが目的でしょう。
しかし、国鉄や東急などは、沿線価値がある程度高く球団保有が路線価値の向上につながらないと判断し、球団を手放しました。

  
 
         グッズ販売も球団経営にはかかせません。                        

その後、経済成長が一段落し、輸送量や路線価値の急激な上昇が見込めなくなり、鉄道事業が頭打ちになってくると、広告宣伝の意味合いが薄い鉄道会社の球団経営は、お荷物状態になってきました。

南海はダイエーに、阪急はオリックスに買収されますが、その後もバブル経済破たんに伴い鉄道会社以外の親会社の経営状況も悪化し、企業が球団を広告媒体としても保有する意味合いが減少しているのが現状です。

     

今、鉄道会社が保有している球団は、西武と阪神だけですが、それにはどちらも自前の球場を持ち、自社路線を使わせるというメリットがあるので、辛うじて持っている状態です。
その上、鉄道会社がある地方だけの人気だけではなく、全国的な人気も、これからの球団には必要になってきます。

もし、鉄道会社が、球団を保有するなら、西武、阪神と同じやり方でメリットを創出するほかありません。
そして、一番重要な事は、球団単体で黒字をあげ一企業として成り立っていなければならないのではないでしょうか?