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大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる  町田明広先生の解説 第一話 2/14

2021年02月14日 22時42分00秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話
*膨大な情報をデータとして保存するものです。
町田 明広@machi82175302  2021年2月14日
いよいよ本日から、「青天を衝け」がスタートします。可能な範囲ですが、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。
町田 明広@machi82175302 2月14日
18時からの早・「青天を衝け」を拝見し、現在、ツイート内容を考えております。コメント対応が粗雑になり、申し訳ございません。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
「青天を衝け」初回を拝見!血洗島の透き通るような景色、そして細部にまで忠実に再現された江戸城内、何より躍動する人物群像、すごく見ごたえがありました!渋沢栄一と徳川慶喜の生涯が、微妙にリンクしながら同時進行的に描かれており、今後の運命的な関りが髣髴されました。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
しかし、徳川慶喜、凛々しい。そして、「西郷どん」に登場しなかった藤田東湖が初回から。感慨深い。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
冒頭の渋沢栄一と徳川慶喜が初めて出会ったシーンについて、まず気が付いたのは元号の正確性。文久4年と表示されたが、よく元治元年にしなかったと感心した。2月20日に文久から元治に改元されており、この出会いの直後に改元。とは言え、面倒なので、元治元年にしがち。プチ感動!
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
ちなみに、元治2年(1865)4月7日に慶応に改元。つまり、元治は実質1年だけ。この時期では、万延(1860-1861)も約1年のみ使用された元号。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
渋沢栄一と徳川慶喜、この出会いのシーンは文久4年(1864)2月のことで、渋沢は一橋家に仕官するにあたり、正式な仕官前に慶喜への拝謁を希望した。平岡円四郎と既に話ができていたが、渋沢がいきなり慶喜に会うということは、本来であればあり得ない。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
この経緯について述べると、渋沢は、「是までの先例にあるかないか知れませぬが、一度君公に拝謁を仰付けられまして、仮令丁寧な御意がなくとも、一言直に申上て後に、御召抱へを願ひたい」(「雨夜譚」)と平岡に依頼したところ、「其れは例がないから六かしい(難しい)」と拒否された。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
渋沢は「例の有無を仰しやるなら、農民を直に御召抱へになる例もありますまい」と返し、平岡は「そんなに理窟をいつたとて左様は往かぬ」と拒絶すると、「それが往かぬと仰しやる日には私共は此の儘にて死ぬとも生るとも、此の御奉公は御免を蒙るより外に仕方がありませぬ」と強情だった。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
とうとう平岡円四郎が折れて、数日後、「ドウカ拝謁の工夫が附たやうだ、併し見ず知らずの者に、拝謁を許す訳にはゆかぬから一度遠見なりとも、彼れが何某で御座ると、御見掛けになる様な工夫をせむければならぬ」と、拝謁の方法を渋沢栄一に話し始めた。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
平岡は「元々家来でないから、好い都合がないが、両三日中に松ヶ崎へ御乗切りがあるから、其途中へ出て居て、御見掛けになる工夫をするがよい、けれども夫れには乗馬だから、駈んければならぬといふことであつた」と、馬で遠出をする慶喜を待ち伏せして拝謁するという無茶なプランだった。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
渋沢は大いに困惑した。というのも、「自分の身体は其頃から肥満して居り、殊に脊も低いから、駈あるく事は極めて難義であつた」からである。しかし、「一橋公の御馬が見えるとすぐに、下加茂辺から山鼻まで行程十町余りの処を一生懸命でひたばしりに駈けて御供をした」。栄一、頑張った。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
その際の詳しいやり取りは分からない。もしかしたら、ドラマのような展開があったかも知れず、興味深いエピソードである。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
渋沢栄一は、天保11年(1840)2月13日、安部信発(あんべ のぶおき)を領主とする岡部藩(2万250石)武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま、埼玉県深谷市)の豪農であり非常に勤勉家で厳格な父・渋沢市郎右衛門、慈悲に富んだ母・えいの間に誕生した。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
ちなみに、渋沢栄一は天保生まれ。その後、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和の元号を生き抜いた。なんとその数は11!!マークちなみに、私は昭和、平成、そして令和の3に過ぎないが、昭和が被ることに感激。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
渋沢栄一の幼名は市三郎、後に栄治郎、12歳頃には実名を美雄。その後、伯父渋沢誠室の命名で栄一と改名し、通称は栄一郎だった。一橋家仕官後は篤太夫、明治政府への出仕時代に一時、篤太郎。その後、栄一。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
渋沢栄一の号は、従兄で学問の師匠・尾高惇忠(あつただ、ドラマではじんちゅう)が名付けた青淵。なお、栄一には、兄弟姉妹は多かったが多くが早世し、成人したのは5歳上の姉なか、12歳下の妹ていの2人だった。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
渋沢家は、血洗島村開村当初から在住していた。渋沢が幼少の頃、血洗島村には渋沢を氏とする家が10数軒あった。生家は渋沢一族の宗家「中の家」、渋沢の母えいの許に婿養子に入ったのが親戚の渋沢宗助家(「東の家」)の元助(栄一の父)。「中の家」を継ぎ市郎右衛門と改名した。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
渋沢栄一の父・市郎右衛門は、家業については非常に厳格だった。一方で、物惜しみをすることはなく、親戚や近郷近在で因っている人がいれば、世話や援助を行い、誠実に実務に邁進していた。学問を好み俳語連歌を嗜むなど、教養も兼ね備えた人物であったようだ。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
母のえいは、慈悲深い女性であり、ハンセン病の罹患者も分け隔てなく世話をしたらしい。その影響を大いに受けた渋沢栄一は、社会福祉や医療事業に尽力することになった。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
市郎右衛門は家業として、麦作や養蚕の他に他家から藍葉を買入れ、かつ自家でも作りそれを藍玉に製造して信州、上州、武州秩父郡の紺屋に販売していた。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
大きい紺屋では、年に数百両の藍玉を使用した。一駄(36貫・135キログラム)について20両くらいの値段が付き、3~5両の利益があった。栄一の朝戚の家々も藍作・藍玉製造や販売を実施し、それぞれに得意先があった。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
「中の家」は主に信州が得意先で、上州伊勢崎や近隣の本庄などへも進出していた。質屋・金融も兼業しており、農工商・金融を営む豪農に生まれたことは大実業家・渋沢の誕生に寄与したことは間違いない。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
市郎右衛門は血洗島村で実家の渋沢宗助家(「東の家」)に次ぐ資産を築き、それまで衰退していた「中の家」渋沢家の家勢を挽回した。領主・岡部藩主安部家より苗字帯刀を許され、名主見習役に昇進させたが、あくまでも農民であったことを、今後の展開からも忘れてはならない。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
ところで、血洗島というやや物騒な地名の由来について、実は定説はない。深谷市ホームページによると、アイヌ語の「ケシ=厚岸、ケセン=気仙沼、ケッセン」(岸、末端などの意)で血洗(この当て字が憶測のもと)という説。因みに利根川のトネはアイヌ語で(tanne)長いという意味らしい。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
その昔、この辺りで合戦があり(一説に平安時代に八幡太郎義家の奥州遠征の途中)家臣の一人が切り落とされた片手を洗ったので血洗島と言い、土地の人がその手を近くに葬った墓が手墓と言う伝説から採られたとの説もあり。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
通称『チアラジマ』と言うように、度重なる利根川の氾濫のため地が荒れたとか、地を洗うように流れたとの説。個人的には、この説がしっくりくるような気がするが、果たして。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
もう一人の主人公、徳川慶喜について、ちょっとだけ触れておきたい。面倒なので、「徳川」で行きます。天保8年(1837)9月29日、水戸徳川家35万石の第9代当主・徳川斉昭(烈公と謐号)の7男として江戸小石川藩邸で生まれ、幼名は七郎麻呂。生母は京都の有栖川宮家出身の正室・登美宮。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
徳川慶喜は、御三家の水戸家当主と皇族の宮家という貴種として生まれており、斉昭は少年の慶喜を、「天晴な名将となるか、さもなくば手に余るようになる」と評価している。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
徳川慶喜は、生後半年余りで国許水戸に移り、厳しく水戸風(質素な衣服、食事一汁一菜)で養育され、学業は4歳の頃から藩校弘道館に通学し、『新論』を著した会沢正志斎や弘道館頭取の青山量太郎(延光)が侍読を務めた。徹底的な英才教育を受けたと言えよう。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
斉昭は天保11年(1840)の水戸帰藩以降、藩政改革に邁進した。やることが派手で幕府に対して海防問題等を直言、幕府は水戸藩の急進的な改革に批判的となり、天保15年(1844)年5月、江戸で隠居・謹慎を沙汰され、長男の慶篤が家督を継ぎ10代藩主となった。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
対外情勢の深刻化が増すと、弘化元(1844)年11月に斉昭謹慎を解除。国内改革が急務となり、斉昭の存在がクローズアップされたのだ。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
弘化2年(1845)8月、一橋家から慶喜相続の打診があり、紀州・尾張の内々の打診を断った経緯の中、斉昭は迅速に前向き対応した。ドラマで描かれたとおり、これは老中阿部正弘から12代将軍家慶の内諭と伝言されたことが大きい。もちろん、個人的な思いもあったはずだが。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
斉昭は、世子の家定は虚弱で暗愚との評判で、将軍継嗣に繋がる可能性ありと判断した。弘化4(1847)年9月、一橋家相続の沙汰、一橋領10万石付与の伝達があり、12月1日に元服、七郎麻呂を慶喜と改め、従三位中将に補任され刑部卿と呼称、慶喜11歳であった。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
今日もたくさんの人物が登場しました。今回は群像劇的な感じもありますね。どの人物から紹介するか悩みます。。本日は徳川斉昭、高島秋帆について、触れてみたいと思います。徳川慶喜については、もちろん、次回意向も継続して
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
徳川斉昭について、「日本大百科全書」を参考にご紹介したい。幕末の水戸藩主で治紀の三男。寛政 12年3月11日、小石川の江戸藩邸に生まれる。虎三郎、のち敬三郎と称す。初名紀教。字は子信。号は景山、潜龍閣。諡を烈公という。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
斉昭は、会沢安(正志斎)らに学び賢才の誉れ高く、文政12年(1829)長兄の藩主斉脩死後、藤田東湖ら改革派に推されて第9代藩主となり、斉昭と改めた。人事を刷新して藤田や会沢らを抜擢し、海防、民政、教育を重視した天保の改革を行った。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
斉昭は銃砲鋳造を行い、蝦夷地開拓を計画して船を派遣し、天保検地や諸国との国産交易を実施した。また、藩士教育に弘道館を建て、領内の廃仏棄釈によって思想統制を強化するなどした。しかし、これら水戸藩独自の改革は幕府の嫌疑を招くところとなった。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
藩内保守派(結城寅寿ら)の策動もあって、弘化元年(1844)5月、斉昭は幕府から隠居・謹慎を命ぜられ、長男慶篤に家督を譲った。この事態、内紛ともいえる事態に幕府も巻き込まれ、水戸藩の危ない将来を予感させるような出来事。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
その後、武田耕雲斎ら改革派による幕府への復職嘆願があり、また外国艦船の来航という「外患」の下で、老中阿部正弘らの幕閣が有力諸藩との協調策に転じたこともあって、嘉永2年(1849)藩政への参与を許された。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
嘉永6年(1853)、ペリー来航に際しては海防問題について幕政参与を命じられたが、その対外強硬論は幕閣のいれるところとならず、安政4年(1857)阿部の死により、参与を免ぜられた。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
安政5年(1858)、斉昭の政敵・井伊直弼が大老となり、日米修好通商条約が無勅許のまま調印され、またかねてより争われていた将軍継嗣問題では斉昭の実子一橋慶喜を抑えて紀州藩主徳川慶福が後継者に決定された。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
無断調印を怒った斉昭は、実子慶喜、尾張藩主徳川慶勝らとともに不時登城して違勅を責めたがかえって謹慎を命じられ、翌年、安政の大獄により国許永蟄居に処された。万延元年(1860)8月15日、水戸で病没。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
高島秋帆について、寛政10年(1798)、長崎に生まれ、名は茂敦、字舜臣(きみおみ)。通称、四郎太夫。江戸時代後期の兵学者・砲術家。日本近代砲術の祖と言われる。町年寄兼長崎奉行所鉄砲方の父・茂紀の跡を継ぎ、オランダ人から蘭学・兵学・西洋砲術を学んだ。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
高島秋帆は、岡部藩にて幽閉されたため、今回は渋沢栄一とも接点があったとして描かれたが、こうした接触はあり得るかも知れず、うまく脚色された展開であった。お見事。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
高島秋帆は、オランダ式砲術を研究、荻野流砲術の師範役を務め、高島流を創始した。そして、天保 11年 (1840)のアヘン戦争に触発され、『泰西火攻全書』を著わし、洋式砲術の振興を幕府に進言した。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
高島秋帆は、天保12年(1841)、伊豆韮山代官江川太郎左衛門の後援を受け、武蔵徳丸原で洋式銃陣の演習を行い、長崎会所調役頭取に栄進。しかし、先覚的行為を非難されて、翌年投獄された。しかし、投獄の理由は諸説あり、確定していない。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
高島秋帆は、ペリー来航を機に赦免され、講武所砲術指南役、具足奉行格となり、安政2年幕臣に転身、安政3年 (1856) 年には講武所師範役に就いた。慶応2年(1866)1月14日死去。69歳。「只今之急務と仕候処は大砲に御座候」(「嘉永上書」)は有名な意見。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
高島流とは、戸時代末期、高島秋帆が創始した西洋砲術の一流派で、臼砲、野戦砲、小銃で隊を編成した。高島秋帆は天保 12年(1841)、武州徳丸ヵ原 (現在の東京都板橋区高島平) で調練を行なった。この砲術は幕府に採用され、幕末の軍事、思想に多大の影響を与えた。 
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
ちなみに、板橋区のホームページによると、「高島平の地名は、高島秋帆の業績と名前に由来したもの」と紹介されており、私も詳しくは分からない。なお、徳丸原での調練の時、参加者100人は長崎を中心に佐賀、岩国、三河の田原、伊豆韮山、水戸を始め、全国から馳せ参じた。
町田 明広@machi82175302 2021年2月14日
高島の調練を一目見ようと、多数の大名関係者・蘭学者・砲術師・江戸市中の好事家や近在の村民が訪れ、その数は1000人とも3000人とも言われている。その中に、蘭学を志していた勝海舟もおり、高島を「具現の士」と評して、日本の近代化に果たした役割を高く評価した。




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