(インタビューの第4回では、世界の著名パントマイミストとの交流のエピソードをお届けします)
佐々木 アメリカやフランスの滞在時にマルセル・マルソー、ジャン・ルイ・バローら世界の著名なパントマイミストとの素敵な出会いがあったそうですね。まず、マルセル・マルソーとの交流についてお話ください。
ママコ マルソーとの最初の出会いは、ロスアンゼルスの劇場です。劇場のロビーにマルソーと一緒にアメリカの人気コメディアンのレッド・スケルトンがいらっしゃって、私が英語を話すものですから、マルソーに大変喜ばれて、いつも舞台が終わると食事をすることになりました。マルソーは、フランス人なのに英語が大変上手でした。
佐々木 マルソーとはどんな話をしたのですか?
ママコ サンフランシスコ公演の時には、チャイナタウンで一緒に食事をすると、必ず政治や世界の話になりました。マルソーは、非常に社会意識が高くて、彼と一緒にいる時は、世界のニュースの話題が多かったです。
佐々木 意外な一面ですね。
ママコ それで、何回かお会いしているうちに、ロスアンゼルスの大変高級なホテルにマルソーが泊まっていらっしゃったのですが、ある日、訪ねていくとそのホテルのプールにマルソーがおられまして、「今、何を作っているか」と聞かれて、「修善寺物語」(岡本綺堂作の戯曲)を考えているって言ったのです。それで、その修善寺物語の粗筋を英語で少し語ったのです。(面作りの)彫り師が自分の娘が死んでいく顔を冷然と彫るという話をしたら、彼は大変興奮して、その場で彼がその話を作ってしまったのです。そして、「明日のテレビでこれをやるから」と彼は言って、その日にテレビで見たら、彼は、きちんとママコから聞いた話だと礼義正しく言った上で、即興的に作品を演じました。恐らくテレビで何かやってくれと言われて、短い作品がなくて困っていたのではないでしょうか。アメリカのお客様は、ママコが誰か知らないけど(笑)、そう言ってくれたのは嬉しかったですね。
佐々木 この修善寺物語の話はいつ頃でしょうか。
ママコ 70年前後ですね。アメリカで「十牛」を上演している頃です。いかにも私がアメリカで成功したような話をしていますが、実際は成功してない話の方が多いです。ただ、その時にエポックな方々と出会えて幸運だったですね。
佐々木 映画「天井桟敷の人々」で有名なジャン・ルイ・バローとも出会ったそうですね。
ママコ ACT劇団で教えていた時に、大変有名な方が時々劇団を訪ねてきました。その中で、ジャン・ルイ・バローも来ました。その頃、彼はフランスの5月革命で若者に劇場を開放したということで、政府から(活動の場となっていた)劇場を追われたのです。劇場を追放されたバローは、世界を巡業しようということで、アメリカに来てたのです。
佐々木 なるほど。
ママコ ジャン・ルイ・バローが来た日、前日に色々なことをやっていたせいで、私は大変眠かったのです。朝の8時か9時頃に、突然バローに「Where is Mamako?」と呼ばれて、びっくりして、一緒にマイムをやろうと言うのです。眠くて仕方がない中で、子どもが凧揚げするマイム作品を必死で演じました。
佐々木 それは、どこでやったのですか。
ママコ 劇団のスタジオです。勿論、劇団のメンバーからは、ママコがバローに言われて演じたことで、好意的な大拍手がありました。それから、彼が「Elle est parafait!(彼女、完璧)」とか言って、上着を脱ぎ始めて、パントマイムの作品を始めました。バローが演じたのは、馬の調教のパントマイムでした。馬に乗って少し走らせて、ムチを打って馬におじきをさせて、馬を座らせるという感じの作品です。彼の足が動くと、馬が本当に動いているように見えました。
佐々木 バローは、どんな印象でしたか。
ママコ 私は、自分が指名されて、必死だったのであんまり覚えていません。舞台の彼はよく覚えていますが。その後、私がフランスに行った時には、もう引退されていて、晩年のバローはアルコール中毒患者になったという話を聞きました。ワインを飲み続けて、止まらなかったみたいです。でもバローの影響力はすごかった。天井桟敷の人々を世界中の人が見て、バローのマイムに感銘を受けたのですからね。
佐々木 あと、ドゥクルーやルコックとの交流もあったのですか。
ママコ ドゥクルーには、渡米の最初の頃にアメリカからパリに行って、パリで学びました。ドゥクルーは、非常に自分のメソッドに厳格な方です。ある時に即興をやらされたことがありました。私はそれこそ当時は“巴里のアメリカ人”で、内面が荒れ狂っていて、しかも、アレルギーの病気になっていたので、非常に変な即興を演じたのです。他の生徒は大喜びで笑いに笑いましたが、大変ダメな即興でした。約1~2カ月、そんな時期が続きましたが、彼は本物のすごいアーティストで、私が、病気が辛くて、涙を流しながら稽古をしていても、ふっと腕を掴んで、じっとこちらを見ているという思いやりがありました。
佐々木 ママコさんがお会いしたドゥクルーは、エティアンヌ・ドクルーさんですか。それとも息子のマクシミリアンですか。
ママコ エティアンヌ・ドゥクルーです。マクシミリアンとは、一度も会っていません。ドゥクルーは小柄で、彼の生徒の方が身体が大きかったのが印象的でした。
佐々木 ルコックとの交流はいかがでしたか。
ママコ ルコックには1ヵ月程度学びました。私は、とてもやっかいな生徒だったんです。ルコックが、ニュートラルの仮面を設定した(付けた)と言った時に、私はそれはニュートラルでないと言ったんです。それ自体が非常にドラマティックで、ゼロにならないと言ったのです。普通の先生ならそういう否定的な言動を根に持ったりするのですが、ルコックは流石に本物で根に持ちませんでした。彼がマイムの即興をやったら、とても面白かったです。また、教室が終わった後に、ルコックがこれまでにこのクラスに来た生徒の中に4大マイムがいると言って、その1人に私の名前を挙げて下さったので、非常に平等だと思いました。
佐々木 ルコックに習ったのはいつ頃ですか。
ママコ アメリカからパリに行った時なので、60年代の夏ですね。後で、ACT劇団にルコックさんが訪ねてきたのですが、不肖の弟子の私に一番先に挨拶してくれました。彼は、いつも冷静で一種の仙人というか、科学者みたいなところがありました。私が「ウェイター」のマイムをする時に突然顔をつくり変えて演じますが、彼の演技は本当に自然で、物の見方が科学者みたいだなって思いました。
(つづく)
佐々木 アメリカやフランスの滞在時にマルセル・マルソー、ジャン・ルイ・バローら世界の著名なパントマイミストとの素敵な出会いがあったそうですね。まず、マルセル・マルソーとの交流についてお話ください。
ママコ マルソーとの最初の出会いは、ロスアンゼルスの劇場です。劇場のロビーにマルソーと一緒にアメリカの人気コメディアンのレッド・スケルトンがいらっしゃって、私が英語を話すものですから、マルソーに大変喜ばれて、いつも舞台が終わると食事をすることになりました。マルソーは、フランス人なのに英語が大変上手でした。
佐々木 マルソーとはどんな話をしたのですか?
ママコ サンフランシスコ公演の時には、チャイナタウンで一緒に食事をすると、必ず政治や世界の話になりました。マルソーは、非常に社会意識が高くて、彼と一緒にいる時は、世界のニュースの話題が多かったです。
佐々木 意外な一面ですね。
ママコ それで、何回かお会いしているうちに、ロスアンゼルスの大変高級なホテルにマルソーが泊まっていらっしゃったのですが、ある日、訪ねていくとそのホテルのプールにマルソーがおられまして、「今、何を作っているか」と聞かれて、「修善寺物語」(岡本綺堂作の戯曲)を考えているって言ったのです。それで、その修善寺物語の粗筋を英語で少し語ったのです。(面作りの)彫り師が自分の娘が死んでいく顔を冷然と彫るという話をしたら、彼は大変興奮して、その場で彼がその話を作ってしまったのです。そして、「明日のテレビでこれをやるから」と彼は言って、その日にテレビで見たら、彼は、きちんとママコから聞いた話だと礼義正しく言った上で、即興的に作品を演じました。恐らくテレビで何かやってくれと言われて、短い作品がなくて困っていたのではないでしょうか。アメリカのお客様は、ママコが誰か知らないけど(笑)、そう言ってくれたのは嬉しかったですね。
佐々木 この修善寺物語の話はいつ頃でしょうか。
ママコ 70年前後ですね。アメリカで「十牛」を上演している頃です。いかにも私がアメリカで成功したような話をしていますが、実際は成功してない話の方が多いです。ただ、その時にエポックな方々と出会えて幸運だったですね。
佐々木 映画「天井桟敷の人々」で有名なジャン・ルイ・バローとも出会ったそうですね。
ママコ ACT劇団で教えていた時に、大変有名な方が時々劇団を訪ねてきました。その中で、ジャン・ルイ・バローも来ました。その頃、彼はフランスの5月革命で若者に劇場を開放したということで、政府から(活動の場となっていた)劇場を追われたのです。劇場を追放されたバローは、世界を巡業しようということで、アメリカに来てたのです。
佐々木 なるほど。
ママコ ジャン・ルイ・バローが来た日、前日に色々なことをやっていたせいで、私は大変眠かったのです。朝の8時か9時頃に、突然バローに「Where is Mamako?」と呼ばれて、びっくりして、一緒にマイムをやろうと言うのです。眠くて仕方がない中で、子どもが凧揚げするマイム作品を必死で演じました。
佐々木 それは、どこでやったのですか。
ママコ 劇団のスタジオです。勿論、劇団のメンバーからは、ママコがバローに言われて演じたことで、好意的な大拍手がありました。それから、彼が「Elle est parafait!(彼女、完璧)」とか言って、上着を脱ぎ始めて、パントマイムの作品を始めました。バローが演じたのは、馬の調教のパントマイムでした。馬に乗って少し走らせて、ムチを打って馬におじきをさせて、馬を座らせるという感じの作品です。彼の足が動くと、馬が本当に動いているように見えました。
佐々木 バローは、どんな印象でしたか。
ママコ 私は、自分が指名されて、必死だったのであんまり覚えていません。舞台の彼はよく覚えていますが。その後、私がフランスに行った時には、もう引退されていて、晩年のバローはアルコール中毒患者になったという話を聞きました。ワインを飲み続けて、止まらなかったみたいです。でもバローの影響力はすごかった。天井桟敷の人々を世界中の人が見て、バローのマイムに感銘を受けたのですからね。
佐々木 あと、ドゥクルーやルコックとの交流もあったのですか。
ママコ ドゥクルーには、渡米の最初の頃にアメリカからパリに行って、パリで学びました。ドゥクルーは、非常に自分のメソッドに厳格な方です。ある時に即興をやらされたことがありました。私はそれこそ当時は“巴里のアメリカ人”で、内面が荒れ狂っていて、しかも、アレルギーの病気になっていたので、非常に変な即興を演じたのです。他の生徒は大喜びで笑いに笑いましたが、大変ダメな即興でした。約1~2カ月、そんな時期が続きましたが、彼は本物のすごいアーティストで、私が、病気が辛くて、涙を流しながら稽古をしていても、ふっと腕を掴んで、じっとこちらを見ているという思いやりがありました。
佐々木 ママコさんがお会いしたドゥクルーは、エティアンヌ・ドクルーさんですか。それとも息子のマクシミリアンですか。
ママコ エティアンヌ・ドゥクルーです。マクシミリアンとは、一度も会っていません。ドゥクルーは小柄で、彼の生徒の方が身体が大きかったのが印象的でした。
佐々木 ルコックとの交流はいかがでしたか。
ママコ ルコックには1ヵ月程度学びました。私は、とてもやっかいな生徒だったんです。ルコックが、ニュートラルの仮面を設定した(付けた)と言った時に、私はそれはニュートラルでないと言ったんです。それ自体が非常にドラマティックで、ゼロにならないと言ったのです。普通の先生ならそういう否定的な言動を根に持ったりするのですが、ルコックは流石に本物で根に持ちませんでした。彼がマイムの即興をやったら、とても面白かったです。また、教室が終わった後に、ルコックがこれまでにこのクラスに来た生徒の中に4大マイムがいると言って、その1人に私の名前を挙げて下さったので、非常に平等だと思いました。
佐々木 ルコックに習ったのはいつ頃ですか。
ママコ アメリカからパリに行った時なので、60年代の夏ですね。後で、ACT劇団にルコックさんが訪ねてきたのですが、不肖の弟子の私に一番先に挨拶してくれました。彼は、いつも冷静で一種の仙人というか、科学者みたいなところがありました。私が「ウェイター」のマイムをする時に突然顔をつくり変えて演じますが、彼の演技は本当に自然で、物の見方が科学者みたいだなって思いました。
(つづく)