↓教伝地蔵
↓殺生石園地
■説明板・・・
●教傳地獄の由来
第96代後醍醐天皇の御代(1318)の頃、奥州白河在の五箇村に蓮華寺と言う寺があり、「教傳」と言う住職がおりました。この教傳は生まれながらの不良少年で、心配した母がお坊さんにしようとしてこの寺に預かってもらいました。その教傳も28歳になって、前の住職の跡をつぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。元亨元年(1336?)のことです。教傳は、2・3人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになりました。その日のことです。教傳は、母が朝食を用意してすすめると教傳はまだ旅仕度も出来てないのにと悪口を言いながら、お膳をけとばしてそのまま出発してしまいました。
那須温泉に着いた教傳はある日殺生石を見学しようと賽の河原附近まで行くと今まで晴れわたっていた空が、俄かに(にわかに)かきくもり雷鳴が天地をゆるがし、大地から火炎熱湯が噴き出し、連れの友人はいっせいに逃げ去りましたが、教傳は一歩も動くことが出来ませんでした。ふり向いて見ると「おれは寺を出るとき母の用意したお膳を足げりにして来た天罰をうけ、火の海の地獄に堕ちて行く」と教傳が大声をあげ苦しみもがいております。友人がかけ寄り助けようと引き出したが、教傳の腰から下が、炭のように焼けただれており息をひきとってしまいました。それからも教傳が引き込まれたところには泥流がフツフツと湧いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまった。その後、湯本温泉の有志が享保5年に地蔵を建立して供養を行い、親不孝のいましめとして参拝する者が後を絶たなかったと言うことです。
那須町観光課・那須観光協会
■殺生石園地案内板・・・
●殺生石
周囲には火山特有の有毒ガスが噴出しており、近づいた小動物のほとんどが死んでしまうことからこの名がついた。九尾の狐伝説の残る名所。「九尾の狐伝説」物語は今から約3,500年前。中国、インドを荒らしまわった九尾の狐は、やがて日本に渡って「玉藻の前」という美女に変身し、帝の寵愛を受けるようになりました。帝の命を奪い日本を我が物にしようとした玉藻の前でしたが、占い師の阿部泰成(※安倍泰成?)によって正体を見破られ、那須野が原に逃げ込んだところを、当時の武将、上総介広常、三浦介義介によって討ち取られました。狐は死んで巨石となり、その怨念は毒気となって近づくものすべてを殺し続けました。時は過ぎ、これを聞いた名僧源翁和尚がこの地を訪ね、持っていた杖で石を一喝すると、石は3つに割れ、1つは会津に、1つは備前へと飛んでいき、残った1つが殺生石だと伝えられています。
那須町
■案内板・・・
●殺生石と松尾芭蕉(まつおばしょう)【1644-1694】
元禄2年(1689)この地を訪れた俳人芭蕉は、紀行「奥の細道」に次のように記(しる)しています。
「殺生石は温泉(いずゆ)の出づゆ山陰(やまかげ)にあり、石の毒気(どくけ)いまだ滅びず、蜂、蝶のたぐひ真砂(まさご)の色(※地面の砂の色)の見えぬほど重なり死す。」
この様子から、当時は、相当の火山性ガスが発生していたと思われます。また、この地に残した一句を紹介しましょう。
「石の香は夏草赤く露(つゆ)あつく」
現在は、ガスの噴出量は少なくなっているものの、硫黄色を残した巨石群と噴気は、往時の雰囲気を漂わせています。
栃木県
史跡 殺生石(国指定名勝)
2022/03/29 07:15読売新聞に九尾の 狐きつね 伝説で知られる栃木県那須町の「 殺生石せっしょうせき 」が、突然真っ二つに割れた・・・という記事が掲載された。
2022/12/9下野新聞に九尾の狐伝説の殺生石でイノシシ8頭の死骸が見つかった。・・・という記事が掲載された。