魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

催眠術入門2

2014-09-09 09:47:16 | Weblog

 催眠にかかりにくい弛緩タイプとは、自分から何もしなくても施術者の言葉通りに振り子の重りが動くことを期待しているのではないだろうか。超能力を期待しているのかもしれない。全くの他力本願性格者だ。他力本願でも親鸞のそれとは違う。親鸞には阿弥陀如来への信仰があった。法然上人への尊敬と信頼があった。それは自ら発するもので自力といえるだろう。ところが催眠にかからない弛緩タイプは催眠術を信じているわけでも、催眠術の先生を信頼しているのでもないようだ。信じていれば意識的にでも手を動かしてしまうものである。先生から「重りが、まるで振り子のように、左右に動くと思ってください」といわれても、ただ漠然と動くと思うだけで、奇跡が起こるのを待っているだけなのだろう。動くイメージがついて行かないのかもしれない。想像力が貧しいのである。あるいは、たとえイメージを働かせていたとしても、本当に動くのだろうかとか、こんなことばかばかしいとか、ふと彼女のことを思ったりするとか、雑念が混ざって重りの動くイメージに集中できないのかもしれない。雑念が強いのだろう。雑念が強ければ集中力は弱くなる。信じる力も尊敬する力も弱くなる。無気力にもなる。

 人は誰でも何かに集中するときは緊張して体に力が入るものである。弛緩タイプとは集中力の欠如、雑念の人だといえるだろう。雑念の強い人たちは無気力で常に欲求不満や不安にとらわれているのではないだろうか。かれらが催眠教室に来るのは何か超人的な力が自分を変えてくれ、楽園に連れて行ってくれることを期待してのことだろうが、自分からは何もしないで、丸ごと身体を抱きかかえて持って行ってくれるのを期待しているのだ。しかし、ちょっと宗教的な表現だが、「楽園は心の中にある。楽園に連れて行ってもらうには、導き手に自ら手を差し出し、身体を差し出し捧げ、心を裸にしてもらわなければならない」のである。 世の中で大事をなす人は皆それに身を捧げているのである。芸能スポーツしかり、金儲けも権力獲得もしかりである。

 さて自分を振り返ってみると、懐疑論者であったから、催眠について学ぼうという心は強いが、催眠者を信じる心は弱い人間であった。 だから直接的には催眠にかかりにくいタイプといえる。しかし催眠の原理は理解していたから、自ら意識的に動くことによって、催眠状態に入るという手法を用いていた。先生の言葉を丸ごと受け入れるのではなく、自分の言葉に直して受け入れたのである。ある意味で自己催眠といえるだろう。