『ゴシック短編小説集』の最大の特徴は、20世紀編の充実ぶりにある。ゴシックの伝統が20世紀においても連綿と続いていること、しかもそれが南北アメリカにおいて際立っていることを、クリス・ボルディックは編集方針としてはっきりと示しているからである。
19世紀の14作品に対して、20世紀編では16作品が採用されていること、そして19世紀編ではイギリスの作家が6人、アメリカの作家が5人(2人不明)だったのに対して、20世紀編ではイギリスはわずか3人で、アメリカが8人、そして南米の作家が3人採用されていることが特筆される。
さらに19世紀編で女性作家が2人しかいなかったのに対し、20世紀編では16人中8人と半数を占めていることも特徴的である。このことは女性こそが抑圧的規範を強く受けているがために、ゴシックの伝統に連なるのだというボルディックの論理を証明しようとする姿勢の現れである。
しかし、南米の3人の作家のうちボルヘス(アルゼンチン)とアジェンデ(チリ)が省略されているため、ゴシックの伝統がどのようにして南米に引き継がれていったのかということがよく分からない。でも一人だけアルゼンチンの女性詩人アレハンドラ・ピサルニクの「血まみれの伯爵夫人」が残されていることは救いである。
この作品は16世紀ハンガリーの連続殺人者、エリザベート・バートリの事績(?)を扱った作品で、サドやボードレール、ランボーやアルトー、ジューヴなど、フランスの作家・詩人の一節に先導させて、この610人もの少女達を惨殺した彼女の行為を冷静に記述していく。
ピサルニクの作品は15世紀フランスのジル・ド・レ男爵の残虐行為に反応した、ユイスマンスやバタイユなどフランスの作家達の影響を受けているだろう。いわゆる"残酷趣味"は、フランス経由でアルゼンチンに受け継がれたのである(19世紀フランスには『責苦の庭』という恐るべき小説を書いたオクターヴ・ミルボーという作家もいる)。
"残酷趣味"もまた、ゴシック的要素の一つである。ピサルニクはシュルレアリスト詩人であり、マルキ・ド・サドやイジドール・デュカスの作品を愛したフランスのシュルレアリスト達の系譜につながっているのである。
一方、アメリカの作家の中でいわゆる"南部ゴシック"を代表するウィリアム・フォークナーの「エミリーに薔薇を」が省略されていることも残念である。この作品は架空のまちジェファソンを舞台とし、没落した家系の末裔であるエミリー・グリアソンの孤独な生と死を描いている。衝撃的なラストとともにそこに描き出された閉塞感は、読んでいて息苦しくなるほどで、アメリカ南部におけるゴシックの特徴をよく示している。
同じ"南部ゴシック"の作家であるユードラ・ウェルティという女性作家の「クライティ」という作品が、省略されないで翻訳されている。この作品はフォークナーの「エミリーに薔薇を」に大変よく似た作品で、しかもかなりの傑作である。
クライティとオクタヴィアという未婚の老姉妹が登場するが、クライティはおそらく白痴である。小説はクライティの視点(かなり不分明で脈絡を欠いている)から語られ、彼女の姉や兄、父親に対する憎しみが描かれる。それはエミリー・グリアソンの場合のように、没落した家系に対する深い悲しみから来ている。クライティはある絶望に満ちた"顔"を幻に見る。その顔に衝撃を受けた彼女は、それを見まいとして水をはった樽に頭をつっこんで死ぬのである。
ウェルティの描き出す閉塞感は、フォークナーの「エミリーに薔薇を」以上のものがある。邦訳で省略されなかった20世紀編の作品の中で第一に評価したい作品である。
邦訳で重要な作家の作品がことごとく省略されているため、20世紀編がボルディックの目指した編集方針と違ったものになっていること、あるいは20世紀編に文学的に質の高い作品がほとんど残されていないことを、非常に残念なことと思う。他でちゃんと読むことにしたい。
ウィリアム・フォークナー『フォークナー短編集』(1955,新潮社)新潮文庫、龍口直太郎訳
オクターヴ・ミルボー『責苦の庭』(1899、国書刊行会)篠田知和基訳
(この項おわり)
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