現在刊行されている国書刊行会の『新編日本幻想文学集成』を定期購読していて、現在第2回配本の途中まで読み進んだところだ。日本の幻想文学というと体系立てては泉鏡花しか読んだことがなく、馴染みも薄いので、老後の楽しみとして読むにはいいだろうと思って、購読することにしたのだった。
「新編」というからには「旧編」があるわけで、同じく国書刊行会から1991年に刊行が始まり1995年に完結したシリーズがそれである。旧版は明治から現代までの物故作家33人を一巻ずつに収録したもの。あの白い四六判のシリーズである。
私は当時、外国の幻想小説とりわけゴシック小説に入れあげていたわけだから、日本の作家に眼を向ける余裕はなかった。従って、あの白い本はまったく買っていない。今になってみれば当時まとめて買わなくて良かったのかも知れない。新編では1巻に4作家ずつ全てが9巻に収められているからである。
コンパクトにまとまっていていいのだが、1巻ずつが病み上がりには重い。とても寝転がって読むわけにはいかない。姿勢を正してでないと読めないので、向かう心構えもしっかりしてくる。
ところで、新版には当時まだ生きていた作家の作品が収められていなかった。安部公房、倉橋由美子、中井英夫、日影丈吉の4人である。この4人の巻が新たに「幻戯の時空」のタイトルで1巻にまとめられた。そうか、1990年代前半にはまだこの4人は生きていたのだったか。
安部公房と倉橋由美子は読まなければと思いながら、読んでいない作家だったのでちょうどいい出会いとなった。二人に関しては食わず嫌いで、これまでほとんど読んだことがなかったのだ。
安部公房についてはこの巻を読んで、「デンドロカカリア」のような作品があまりにも寓話的で、いただけないという思いを強くした。こんな作品がノーベル賞に擬せられた作家の書いた作品なのかと正直思う。この辺については詳しく書かなければならない。
倉橋由美子についても寓話性はいつでもつきまとって、まったく食えない。「なんていやらしい女なんだ」などという、今度アメリカの大統領になった馬鹿の科白も言ってみたくなるというもんだ。しかし、晩年の作品に救いがある。イデオロギーから自由になった倉橋の作品は読むに値すると思った。これも詳しく書かねばなるまい。
中井英夫はその『虚無への供物』にいかれて、若いときにずいぶん読んだものだが、今読むとまったく面白くない。どうしてこんな作家を評価していたのかと恥ずかしくなる。それを高く評価していたという渋澤龍彦もいい加減なもんだと思わざるを得ない。
日影丈吉はその通俗性で好きになれなかった作家であるが、中井英夫よりはいいのではないかと思った。中井の人工的技巧が無いからである。
いずれにせよ、きちんと書かなければならないだろう。その前にツヴェタン・トドロフの名著『幻想文学』を再読しておきたいので、しばらく時間をいただきたい。
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