玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

鈴木創士『分身入門』(1)

2022年01月13日 | 読書ノート

「北方文学」84号にジェイムズ・ホッグの分身小説について書いた時に、私は〝分身論〟のようなものを参照することが全くなかった。世の中には数多くの分身小説があるから、分身について文芸評論的に、あるいは哲学的・理論的に書かれた本があるのではないかと思うが、なぜか私のアンテナに引っかかってこない。

 幻想小説についての理論的な書として評価の高い、ツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』にも、分身について論じた部分はないし、ゴシック小説について書かれた何冊かの本にも、分身論を含んだものはなかった。もっとよく探せばあるのかも知れないが、とにかく私はホッグの『義とされた罪人の手記と告白』について論ずるときに、分身論というものをほとんど自前で構築するしかなかったのである。

 アントナン・アルトーの翻訳者として知られる鈴木創士の『分身入門』という本を見つけたとき、私はだから一も二もなく飛びついて読んだのだった。しかしこの本は、私の期待を大きく裏切るものであった。決して〝期待はずれ〟の本だったわけではない。そうではなく、鈴木の扱う〝分身〟の概念が、私のそれとはまったく違っているので、私の期待に〝そぐわなかった〟ということなのだ。

 鈴木の『分身入門』は〝分身〟というものを〝イマージュ〟として、鈴木なりに言い換えれば光の現象として捉えるという考え方に貫かれている。光が一面では物質であり、もう一面では波であるという性質を考えれば、イマージュとは物質的現象であると同時に、反物質的現象でもあるということになる。

 分身がイマージュであるならば、それはどこにでも出現し得る。それは光学的現象がどこにでも出現し得ることと同じことである。だから私が考えていた〝分身〟とはまったく違った概念であって、そういう意味でこの本は私の期待していたものとは別の領域で、分身論を展開するものであった。

 私の考えていた分身は、主に宗教が強いてくる性的な禁止が人間にもたらす分裂が必然化するものなのであって、私は分身を心理的な側面で捉えていたのだったと思う。特にホッグの『義とされた罪人の手記と告白』は心理的な要素が大きい作品であり、心理学の対象として分析されてもおかしくない小説なのである。私にとって分身はイマージュなどではなかったのだ。

 ところでイマージュがどこにでも存在し得るのは、それがいわゆる〝情報〟だからであって、情報としての分身ということが提起されるのであれば、それは極めて現代的なテーマだということになる。その意味で鈴木の『分身入門』が、文学から哲学、映画から音楽までをカバーしていることは納得のいくことである。

 では情報とは何か? 情報とはそれが物質ではないが故に、どこにでも瞬時に伝達可能なものだと言える。文字も画像も音も物質ではないが故に、光ファイバーや電波によって瞬時に伝達可能なものとなる。逆に味や臭い、傷みなどが伝達不可能なのは、それらが物質が直接知覚にもたらす現象であるからであって、それらが情報化されることはない。つまりはイマージュではあり得ないのである。

 鈴木はまた序文で、イマージュは模造ではないと言っている。つまり分身は模造ではない。情報が物質ではないものに関わる以上、それは模像ではなく実体なのである。以下の文章には極めて説得力がある。

 

「像は光でできているのだから、半分は物質であるし、それなら、物が像をもつのであれば、物にも分身があるということになるのではないか。だがそれは模像(シミュラクル)ではない。模像があるということは、ほんものの像があるということになってしまう。私の言う分身は、時間とは微妙に対称をなさない反時間のなかに「同時に」いるのだから、模像とは似て非なるものであり、模像よりもたぶん「実体」に近いだろう」

 

 ただし、彼の言う〝物〟とはむしろ〝もの〟であり、物自体について人間は何も考えることができないのだから、それは〝もの〟の反物質的側面を指すという留保を必要としている。

 

・鈴木創士『分身入門』(2016、作品社)



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