8月下旬のある日、末期癌を宣告された出版関係の仕事をしていたYが入院している病院に、小児科医のZと見舞いに行った。この二人、当時は学生運動の闘士だった。まだ青臭い三流都立高校生であった我々であったが、みな真剣に悩み、真剣に語り合った仲間である。他に、事業家になったK、留年したけれど一番まともなサラリーマンになって、現在は海外赴任中のH。最近はお互いご無沙汰にはなっていても38年来の親友達だ。
この2週前に、Yに末期癌で余命3ヶ月であることを告白された時、やはり私はショックを隠せなかった。友人の医師Zは、既に夏休み休診で不在。私の知る限りの某有名な病院に行くことを勧めたのだったが・・・。結論は変わらなかった。余命3ヶ月・・・。
余命3ヶ月とは最悪の場合であって、1年、或いは何年も保つ場合もあるそうだが・・・。俳人でもあるYは、投げやりに担当医師に「先生、もういいですよ!」と言って怒られたそうだ。当たり前である。医師も、不可能かもしれないが、諦めずに最大限の努力をしているのである。それが、患者自身に諦められては・・・である。
「我々と同じ世代の元NHKアナの池田さんも、全身に癌が転移しても5年近く頑張ったじゃないか!5年とは言わないが、せめて3年は頑張れよ!」それしか言えなかった私。黙って、脈を採ってさりげなく問診するZ。そのZも体調は悪そうだった。医者の無用心というやつだ。
帰り道「どうかな?」、そう聞いた私に返事をするのを躊躇っていたZは、
「僕は専門ではないからはっきりした事は言えないんだが、あの腹水の溜まり具合からいって相当悪いと思う。」
「悪いって、1年は無理なのか?」
「ん~、何とも言えないけれど、良くないように思える。」
「抗がん剤治療はどうなのだろうか?」
「効果がある場合もあるけれど・・・、僕なら、苦しむだろうから、それはやらないと思う・・・」
9月になって、再び見舞いに行った時は、Yは思ったより元気になっていた。来週からは自宅から通院して治療を続けるとの事だったので、ちょっと安心した私だったのだが・・・。その夜、電話で連絡した時、Zも喜んではくれたのだが、何か歯に物が挟まったような喜び方だったので、ちょっと気にはなっていたのだが・・・。
10月21日、衰弱が激しく再び入院したとのメールが来た。衰弱と言っても私には、まったく想像がつかなかった。良かったら会いに来て欲しいとのメールだったので、23日に再び見舞いに行ったのだったが・・・。
部屋に入った瞬間、隣のベットにいる80歳くらいの痩せこけた老人の患者さんと目が遭ったと思ったのだったが・・・。
「ナカムラ~、済まないなあ~」そう確かに、その老人は呟いたのだった。しかし、それは驚いたことに紛れもなく元同級生のYだったのである。まだ54歳なのに、一気に30歳も年をとってしまったような姿だったのである。
私は、狼狽する自分自身を落ち着かせるのがやっとだった。癌とは、本当に恐ろしい病である。人の生気までもあのように吸い取って増殖し続けるのかと思うと、腹が立って来たのである。
Yは、何度も涙を流しながら、もう覚悟してると話を続けた。そして、残される者達への相談に乗ってやって欲しいと、骨と皮だけになってしまって緩和用の点滴を付けた腕で涙を拭っていたのであった。私自身も貰い泣きしそうになるのを必死で堪え、今では名小児科医になっているZやサラリーマンとして出世街道まっしぐらの落第生Hらが、高校生時代にはとても出来が悪かった笑い話などをして、話題を変えるのがやっとだった。
「もう一度みんなで飲みたいな!」、もう何週間も食事が採れない酒好きのYの本当に最後の夢だったかもしれなかった。
「退院できたら、掟破りで内緒で一杯やろう!」
あり得もしない分かりきった嘘しかいえない私だった。
「・・・も呼ぼうか。・・・も来るかな?・・・も入れてやろう!・・・」
そんなあり得もしない誘いに、Yは本気でそう思っているように振る舞ってくれたのだった。一番辛いのはY本人であることは分かっていたのだが・・・。
10月29日、明日病院に行きたい旨のメールを打つが返事がなかった。30日、小児科医のZと病院へ。しかし、もうYと会話が出来る状態ではなかった。Zは「Y!CD持って来たぞ!」と泣きそうに叫んでいた。Yは、うめき声のように「ウォー」と唸るだけだった。
私には、「Z、おまえ遅いんだよ!」そう言っているような気がしたのだった。
Zは骨と皮だけになってしまったYの手と腕を握って、「Y!俺だ!CD聞こう!」 そんな無駄と分かっている呼びかけをしていた。
私は、クリニックが忙しくて見舞いに来る時期が遅れたことを明らかに悔やんでいるZに、「Yは、お前が来たのを確かに分かっているから!あのうめき声が証拠だよ!」そう言って慰めるのがやっとだった。
面会時間がとうに過ぎても我々は居た。それはZも私も、もうこれで最後だと分かっていたからだった。「Y、じゃなぁ!」そう病室のドアーを閉めながら私がYに言った言葉の本当の意味は、「Y、さようなら!」に違いなかった。
そして、翌々日の11月1日未明に、Yが永眠したとの知らせが届いた。まだ54歳であった。本当に、辛かっただろう。もっと、もっと生きたかっただろう。やり残した事もあっただろう。言いたかったこともあったのだろう。でも、それなりに生きたよY、お前は!
さようならY!俺は、まだこの世に未練があるから、当分は残るぜ!淋しいからって、俺を呼んでくれるなよ!そう、呟きながら、私は近いうちに、病院に精密検査に行かねばと思ったのであった。