大徳寺真珠庵を辞して市バス206系統に乗り、東大路の熊野神社前で降りて、コンビニの北の交差点から東へ進み、少し行ったところの左手に、上図の大きな看板が立てられていました。
ここですよ、と嫁さんに示されて、思わず「聖護院門跡・・・」と声に出してしまいました。
「そうです、全国の山伏さんたちの総本山、本山修験宗の聖護院門跡ですよー」
「うん・・・」
「で、こちらが正面玄関口にあたります山門です」
「うん・・・、なかなか立派やね・・・」
「あれ?・・・もしかして、ここは初めてだったりするんですか?」
「うん、初めてです。名前は知ってたけど、修験道の本山というから、もうすこし質素な構えかと思ってた」
「あははは、質素ではないですね、御覧の通りの立派な構えでございますよー」
嫁さんの言う通り、上図左に庫裏の破風付きの大きな式台が格の高さを示し、右には仕切り塀の開かれた通用口の奥の雅な建物が姿を覗かせていて、相当の規模の寺院建築群であることを思わせました。これは・・・、と目を見張りつつ、門跡寺院であることを思い出して、傍らの嫁さんに小声で聞きました。
「門跡ってことは、こちらの歴代の住持は皇族やったわけかね?」
「ええ、そうです、昔はね。住持を勤めた皇族の方が即位された例もありますし、京都御所が焼けた時にこちらが仮の御所となって、天皇がお住まいになった時期が、確か二度ありましたしね」
「ふーん、それはいつ頃?」
「一度目は天明の大火の時だったかな、光格天皇がここの宸殿に入って仮御所としてます。二度目は、えっとー、安政元年の内裏炎上で、孝明天皇がこちらに移って仮宮としてますね」
「住持を勤めた皇族の方が即位した、いうのは誰?」
「あ、それはさっき言った光格天皇ですよ、そのときは同母弟の盈仁法親王が門跡を継承されてますね」
「ふーん、詳しいですな、流石やな」
「エヘヘヘ」
二度も仮御所となったのであれば、上図のような堂々たる宸殿建築が広い前庭をともなって境内地の中心に据えられているのも頷けます。現在の宸殿は江戸期半ばの建立とされ、光格天皇や孝明天皇が仮御所とした際の建物がいまに伝わっています。その由緒により、昭和十一年に「聖護院旧仮皇居」として史蹟に指定されています。
旧皇居の建築遺構は、いまの日本に現存する限りでは、ここ聖護院のほか、奈良吉野の南朝の吉水院および賀名生(あのう)堀家ぐらいですが、その奈良の旧皇居の遺構は規模が小さいため、ここ聖護院の宸殿と書院は京都御所の建築群に次ぐ規模と遺構を伝える唯一の存在と言えます。
つまり、ここ聖護院の中心建築群は、京都においても旧皇居の建物とその内部を間近に見られる唯一の事例であるわけです。いま国の重要文化財に指定されているのは書院のみですが、宸殿も江戸期の遺構を伝えて貴重なものです。
私自身は、仏教美術史が専門で専攻は仏像彫刻史でしたから、昔から聖護院と聞けば本尊の平安期の不動明王立像を思い出すのが常でした。天台宗系の典型的な十九観不動明王像の優品として国の重要文化財に指定される有名かつ重要な遺品です。12世紀、藤原時代後期の優品です。
その姿を初めて拝したのは、昭和60年に京都国立博物館にて開催された特別展「最澄と天台の名宝」においてでした。天台宗の三門跡のひとつにも数えられた聖護院の本尊ですから、こうした天台宗美術の展覧会には必ずと言ってよいほど出品されていて、私自身も憶えている限りでは三回観ており、また京都国立博物館に寄託されて常設展示にも出ていた時期がありましたから、いわゆる「よく見かける」仏像遺品のひとつでありました。
そういう経緯があって本尊の不動明王立像をよく見知っていたため、聖護院へ出かけていく必要が無く、そのまま今回の機会に至ったわけなので、私なら当然行っているだろうと思っていた嫁さんが驚いてしまった次第でした。
それで、上図の式台から入って拝観手続きを行なった後は、嫁さんが案内役となって色々説明しつつ拝観順路をたどりました。大学時代に宮廷文化を学び源氏物語などの王朝文学史を中心に研究し、京都御所へ何度も見学に行っているほか、ここ聖護院にも10回ぐらいは勉強しに行った、という嫁さんです。最高の案内役でありました。
式台からは控えの間の「孔雀之間」を通り、狩野永納の障壁画を見、聖護院門跡使用の二種類の輿を見ました。それから次の間の「太公望之間」の狩野永納の障壁画を見て、庫裏と宸殿の連接部にあたる「波之間」を経て上図の宸殿の広縁に進みました。
宸殿の正面にあたる南側の広縁です。宸殿内部は西の内陣と東の対面所とに分かれますので、南側の戸口の柱間などがそれぞれ異なります。上図手前の広い戸口部分が内陣、奥の狭い三間ぶんの戸口が対面所にあたります。
今回、内陣は儀式の最中で閉じられていましたので、対面所のほうへ行きました。
広縁より対面所の内部を見ました。南から三之間、二之間、上段之間と並ぶ縦三室の空間で、上図は三之間より二之間、上段之間を望む範囲にあたります。この三つの空間がそのまま身分による席順をも表しており、皇族以外の侍僧、臣下は二之間までしか入れなかったそうです。
嫁さんが二之間の畳を指差して「畳の方向が中央だけ違うの、分かります?」と訊いてきました。頷き返しつつ「畳を南北に敷いてるな、あれ通路のしるしだな」と答えました。
「やっぱり、分かるんですねえ」
「武家の書院の対面所でも同じ畳の敷き方をしてるからな。畳の目を南北に向けて敷いたら、だいたいは通路。両側の畳は東西に目を向けるから、そこは侍臣が並ぶ位置になる。上段之間に主君が居て、例えば「近う寄れ」と言えば、言われた家臣は中央の畳を通って上段之間のすぐ近くまで行って平伏して「ははーっ」となる」
「あははは、そうですねえ。公家のほうは無言で頭を下げるだけですけどね」
「せやな」
こちらは三之間の西側です。全ての畳が目を東西に向けて敷かれていますので、この空間は侍者が並んで控える場所であることが分かります。対面の儀の際に、お目見えする人はこの部屋の下手に座し、お声がかかれば二之間の手前まで進む事が出来た、ということです。
こちらは三之間の東側です。障壁画は狩野益信の筆で、東西に九人の仙人を配して描いているので「九老之間」とも呼ばれます。この九人の仙人の詳細は嫁さんも知らなかったようで、「竹林の七賢とか、道教の八仙とは別なんでしょうねえ、九人居ますもんねえ」と言いました。それで教えてあげました。
「たぶん、香山九老(こうざんきゅうろう)の九人やないかな」
「え、香山九老?」
「うん、中国や朝鮮も含めて宮廷の障壁画に好んで採られてた画題のひとつや。確か、唐の詩人の白楽天とか、当時の世俗と断ち功利を捨てて、高齢となって悠々自適の生活を送ってた九人の聖人が、香山という場に集まって風雅清談を事とした、とかいう故事を絵にしたの」
「白楽天って白居易ですよね、あとの八人は?」
「残念ながら、覚えとるのは劉嘉(りゅうか)、虞真(ぐしん)、張渾(ちょうき)の三人だけ。あとは忘れたよ」
「その香山九老の壁画って、他にもあるんですか」
「知ってる限りでは円山応挙の作品がある。あと、渡辺崋山も描いてなかったかなあ・・・」
「メモしときますね」
上段之間を見ました。歴代の聖護院の宮家が座し、一時は光格天皇や孝明天皇の御座所となった、対面所の最上部の空間です。御簾は上げられた状態になっていますが、主が御成りになる時には下げられて、臣下が直接尊顔を伺えないようにします。
背後の床の間の壁画は、皇族の権威をあらわす「滝と松」を描いています。上の筬欄間(おさらんま)に懸けられた「研覃(けんたん)」の扁額は後水尾天皇の筆であるそうです。
「研覃」の「覃」は農業用の鍬や鋤のことで、「研覃」の意味は「良い農具で耕された田畑のように、多様な機縁を受け入れられる柔軟な心」です。 (続く)