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上賀茂梅辻家2 梅辻家住宅

2023年06月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 梅辻家住宅の文化財情報説明板です。この説明文では梅辻家住宅の建物を大きく二つに分けて居室部と座敷部と書いていますが、受付窓口にていただいたパンフレットにおいては主屋と書院、と書いてありました。いずれも内容的には合っていますので、片方が誤記であるということではありません。

 

 仕切り塀の戸口が開放されていて、書院南側の庭園区域が見渡せましたが、特別公開見学の順路は主屋の式台から入るルートになっていましたので、それに従いました。

 主屋部分は大部分が所有主の梅辻家の居住空間になっているために非公開で、式台から控えの間を通るだけで主屋空間は区切りとなり、係員の誘導に沿ってそのまま書院へと導かれました。

 

 式台から書院へと案内された直後に、式台からの通路に供されていた控えの間を撮りました。御覧のように控えの間には屏風や衝立が並べられて、奥の梅辻家の居住空間とを分ける仕切りのように配置され、奥が見えないように配慮されていました。
 このように、文化財に指定されているものの、いまも居住者が生活している建物を一般公開する場合は、往々にしてこのような安全対策およびプライバシー保護の観点からの措置が必須となります。

 

 なので、今回の特別公開のメインは上図の書院部分であったことになります。確証はないものの、江戸時代の後期ごろに京都御所の学問所を移築したとの言い伝えがあり、この移築された書院に主屋を社家の形式で繋いで建てて現在の規模になったもののようです。
 この建物に付随して現存する祈祷札の最も古いものに天保九年(1838)の記年銘があり、その頃には現在の状態になっていたものとされています。

 書院部分は御覧のように天井、欄間、柱、鴨居(かもい)の全てが黒漆で塗られており、いわゆる黒書院のタイプであったことを示しています。黒書院とは、御所では天皇の私的空間として使われる部屋にあたりますが、梅辻家ではこの書院を客間として使用しているそうで、いまも内部のしつらえが客間としてのそれに整えてあります。

 ですが、黒書院としての体裁はそのまま保たれているようで、上図左(北側)に押板(おしいた)風の床の間が見え、正面奥(東側)に黒板壁の付書院が設けられて花頭窓(かとうまど)が開かれています。
 皇室関連の建築に特有の形式であり、いまも随所に打たれた金具には菊御紋が彫られていますので、京都御所の学問所を移築したとの言い伝えは、本物とみて間違い無いでしょう。つまり、現在の京都御所の学問所が建てられる前の、旧建物であることになります。

 かつての京都御所は、天明八年(1788)の京都大火災で町の大部分とともに焼失しており、一部の建物が焼け残っただけであったといいます。その後の寛政二年(1790)に徳川幕府が平安期の旧規に倣って全面的に考証復元再建したのが現在の京都御所の建築群ですが、その再建時に焼け残った旧建築は整理されたようなので、学問所もその際に残っていたものが梅辻家に下賜されたものと推察されます。
 その仮説にたてば、現存する書院部分は承応四年(1655)の御所再建時をいちおうの上限とするものと考えられます。それ以前にまで遡り得るかどうかは、いまの建物の形式を見る限りでは、可能性の問題に尽きるでしょう。

 

 書院の南側の縁側に出ました。ここと東側は御覧のように吹き放ちの濡縁(ぬれえん)で囲まれ、南側中央に庭園への階段が設けられます。戸は、上部が明かり障子、下部が舞良戸(まいらど)になっています。

 

 庭園を見ました。書院からの鑑賞用として造成されたもののようですが、現状では経年による埋没範囲がかなりあるようで、かつては見えたであろう園池の護岸石すら殆ど見えませんでした。

 

 縁側の東側へ回りました。付書院の外側の状態がよく分かります。花頭窓の外側に明かり障子がはめられていて、さらに雨戸で閉じられる仕組みになっています。付書院の南側の戸は完全な板戸です。付書院の外側の奥の戸は、厠であるようです。その奥で屋根も含めて造作が異なりますので、書院部分の範囲がそこまでであると理解出来ます。

 

 庭園から書院の外観を見ました。格式ある見事な入母屋造の建物で、京都御所の内裏の建築群と大して変わらない姿を示します。おそらくはこの部分だけが焼け残ったのを整理してここに下賜移築したものかと思われます。

 

 庭園の地面に半ば埋もれていた石材です。ほぞ穴が穿たれており、何かの組み合わせの構成材の一部であった可能性が考えられます。石材を用いた構造材といえば、神社関連においては鳥居や玉垣ぐらいしか思い浮かびませんが、上図の石材が該当するかは全く分かりません。庭園内の踏み石に転用されているような感じですが、石材そのものにも何らかの由緒が秘められているように感じました。

 

 仕切り塀の内戸口を庭園から見ました。入場時に向こう側から庭園を見た時と同じ戸口です。長屋門や仕切り塀を含めて、主屋を建てた際に一括して設計されて建てられたものと推定されます。  (続く)

 


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