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洛西竹林公園の百々橋

2021年01月31日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2020年6月21日、買い替えたばかりの原付バイクの初の遠乗りを楽しむべく、西京区方面の史跡や社寺を回りました。その際に洛西ニュータウンの東にある上図の竹林公園に寄りました。
 以前に中世上京の範囲を散策した折に、応仁の乱の激戦地の一つでもあった百々橋の跡を見ましたが、百々橋の本体はこちらの竹林公園に移築保存されているため、ついでに見ておこうと立ち寄ったわけです。

 

 京都には子供の頃から長く親しみ、以前は東山区今熊野や南区吉祥院にあわせて5年ほど下宿もしていて、京都の大体の所は行っていますが、竹林公園は今回が初めてでした。京都の竹の博物館というか、植物園スタイルの施設なので、これまであまり興味が無かったからです。

 メイン施設の「竹の資料館」を見学した後に裏口にて上図の案内マップを見ますと、谷間のほうの川に「百々橋」とありました。園内では唯一の橋であるようで、散策路に組み入れて現在も橋として機能しているとのことでした。

 

 早速行ってみました。すぐに石橋が見えてきました。おお、なかなか立派な石橋だな、と思いましたが、元所在地である現在の寺之内通の道幅の半分程度しかありません。車が渡るにはかなり不便です。これは小川が埋め立てられなくても、いずれは撤去される運命にあったわけだ、と納得しました。

 

 かたわらには、かつての橋脚の礎石のひとつが置かれ、説明板が立ちます。

 

 説明板の本文です。明治40年に改築とありますが、橋の改築というのは架け替えとは違う場合がありますので、それ以前から存在した石橋を修繕目的で改めて組み直したものかもしれません。もしそうならば、橋の石材の何割かは、江戸期ぐらいからのものである可能性があります。

 以前に小川通の散策をした折に見学した本法寺の石橋や報恩寺の石橋が江戸期の遺構でありますから、この百々橋も相前後する時期に板橋から石橋に換えられ、それが明治40年に改築された、と解釈すれば良いでしょうか。

 

 礎石です。小川通の「百々橋ひろば」に置かれていた礎石と似たり寄ったりの遺品です。橋脚の礎石は4個ありましたが、残る2個は室町小学校に保存されていると聞きました。機会があればそちらも見に行く積りです。

 

 百々橋の本体です。現在は川の真ん中に中之島を築いてそのうえに橋脚を建てているため、礎石が必要ないわけです。礎石を元通りに戻さないのはこういうことか、と納得しました。

 

 渡ってみました。羽目板の一部にはタガネで彫ったような交差模様などが見られます。たぶんこれらが改築前の石橋の旧材であるのでしょう。これらの表面の磨滅の度合いが大きいのもあり、交差文様が消えかかっているのも見て取れました。

 

 渡った後に反対側から見ました。

 

 奥の散策路を登りつつ、振り返って見たところです。一般的に中世戦国期の板橋と、近世期の石橋は、原則的に同じ規模で造られることが多いです。なぜかというと川の中に埋め込む基礎積みや礎石の位置を変更するのが大変な工事を伴うため、改築や架け替えの場合も、もとの橋脚の基礎をそのまま使うケースが殆どです。

 それで、この百々橋の規模も、おそらくは中世戦国期の板橋のそれに近いのだろうと推察します。この規模より小さい板橋であったならば、応仁の乱の最前線にあっても大軍が渡るのは不可能であるため、橋の両側で小川を境にして対峙する形になりがちであろう、と思います。

 以上、応仁の乱ゆかりの百々橋の見学報告でした。

 


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