日々の出来事 1月24日 ザ・タイガース
今日は、ザ・タイガースが日本武道館で解散コンサートを行った日です。(1971年1月24日)
ザ・タイガースは、1960年代後半、日本中に熱病のように広がったグループサウンズブームの中心にいたグループです。
メンバーは、沢田研二、岸部修三、加橋かつみ、森本太郎、瞳みのる ですが、加橋かつみが脱退した後にが参加しています。
バンド結成は、京都で沢田研二以外のメンバー4人が“サリーとプレイボーイズ”で活動していたところに沢田研二が合流し“ファニーズ”と改名、その後、内田裕也から渡辺プロダクションに勧誘され、すぎやまこういち の提案で、再度改名して“ザ・タイガース”となりました。
デビューは、1967年2月5日発売の“僕のマリー”で、その後“シーサイドバウンド”、“モナリザの微笑”、“君だけに愛を”、“銀河のロマンス”、“花の首飾り”、“シー・シー・シー ”、“廃虚の鳩 ”、“青い鳥”、“美しき愛の掟”と次々にヒットを飛ばし、グループサウンズの頂点に立ちます。
そして、追っかけが山ほど出現し、ザ・タイガース親衛隊の数は他のグループサウンズを圧倒していました。
しかし、1969年3月に加橋かつみがザ・タイガースを脱退した頃から、音楽の嗜好も多様化し、グループサウンズブームも急速に終焉を迎えます。
その上、メンバーのソロ活動も増えたことから、ついに1971年1月、解散コンサートに至りました。
モナリザの微笑(ザ・タイガース)
ヽ( ・∀・)ノ 雨がしとしと日曜日
僕は一人で
君の帰りを待っていた ♪ヽ(´∀`)ノ
ヽ( ・∀・)ノ 壁に飾ったモナリザも
なぜか今夜は
すてきな笑顔忘れてる ♪ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙ どんなに遠く 離れていても
僕はあの娘の心が欲しい ♪ヽ(´∀`)ノ
ヽ( ・∀・)ノ 涙ポロポロ日曜日
僕はいつでも
あの娘の笑顔待っている ♪ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙ どんなに遠く 離れていても
僕はあの娘の心が欲しい ♪ヽ(´∀`)ノ
ヽ( ・∀・)ノ 涙ポロポロ日曜日
僕はいつでも
あの娘の笑顔待っている
あの娘の笑顔待っている ♪ヽ(´∀`)ノ
☆今日の壺々話
ローカルな話題
昔の京都人の連想の流れは、
『 ザ・タイガース → 沢田研二 → ジュリー → 河原町のジュリー 』
となります。
岸部シローについて
絶頂期
アメリカの音楽雑誌にローリングストーン誌と言うのがあります。
この雑誌はアメリカの音楽雑誌の中でも歴史は長く、最も権威ある音楽雑誌のひとつです。
そして、このローリングストーン誌の表紙を飾った日本人は沢田研二と岸部シローのツーショットだけなのです。(1969年3月1日、Vol.28)
日本のアーティストが表紙を飾ったのは後にも先にもただこの1回きりなのです。
岸部シロー、スゴ~イ!
岸部シロー“幻の名著”
「 岸部シローの暗くならずにお金が貯まる―貯めだしたらとまらない」
「 岸部シローのお金上手―誰よりもお金を愛す」
低迷期
2006年、デイブスペクターの愛車が炎上しました。
このとき、MRオクレと岸部シローがコメントを発表しました。
「 俺たちは昔から火の車だ!」
岸部シロー的、今はひま
1、今を生きる→ひまを生きる
2、今、会いにいきたい→ひま、会いにいきたい
3、あの人は今→あの人はひま
4、今のままでいて→ひまのままでいて
5、イマジン→ひま人
クイズ
問い:水戸黄門が印籠に飽きたので代わりのものを使うことになりました。
さて、それは何?
答え:岸部シローの借用書
2008年、全財産13000円で年を越した岸部シロー、応援します。
(駅で岸部シローに切符代の280円を貸してくれと言われた人の話は都市伝説かなァ。)
貧乏
うちの中学は新興住宅地でほとんどが持ち家、お母さんは専業主婦みたいな恵まれた家庭が多かった。
育ちが良いのか、虐めや仲間はずれなどは皆無。
クラスに一人だけ貧乏を公言する男子がいた。
7人兄弟の長男で、子沢山と低収入で給食費も遅れるような状態。
黒であるはずの制服は何故か緑色っぽく色が褪せ、中3になると急に身長が伸びたためか、上腕の3分の1くらいが出ているような状態になってしまっていた。
前のボタンもきつくて閉められなくなり、ある日、何かの拍子に休み時間に背中の真ん中の縫い目が裂けてしまった。
本人は笑いを誘うギャグを飛ばし、笑いながら家庭科の得意な女子が縫って直してあげた。
そこへ、ある男子が、「誰か兄ちゃんとか近所の人とかで綺麗な制服余っている人いないかー?」と声をかけた。
みんな家に帰って、親や隣近所に聞いたりしていらない制服を探した。
翌日2着の上着と1着のズボンが彼の机に置かれた。
その日はクラス対抗バレーボール大会の日で、制服を貰った彼は嬉しそうに制服を高く持ち上げて、「みんなー、ありがとなー、お礼に今日は俺がバンバン点取るからさー!」と言った。
夕刊の新聞配達のため帰宅部だった彼は、どこで覚えたのかと思うほどバレーボールが上手く、宣言どおりに、一人で何点も点を決め、クラスは優勝した。
勝った瞬間、男子は彼に駆け寄り、ポカポカ頭を叩いたり抱きついたり、最後には胴上げ。
それを見ていた女子たちは何故かみんな号泣。
いい時代だった。
野球
幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。
学もなく、技術もなかった母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。
それでも当時住んでいた土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で質素に暮らしていけた。
娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに遊びに行っていた。
給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。
ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。
俺は生まれて初めてのプロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。
野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。
母がもらったのは招待券ではなく優待券だった。
チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わなければいけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、外のベンチで弁当を食べて帰った。
電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。
俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。
結婚もして、母に孫を見せてやることもできた。
そんな母が去年の暮れに亡くなった。
死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように「野球、ごめんね」と言った。
俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。
青い鳥
小さい頃は、近所の駄目人間おじさんをバカにしてたっけ・・・。
よれよれの紺のビニールジャンパー、べた付いてそのままよりも少なく見える髪の毛。
猫背。
生気のない瞳。
ただその存在そのものを見下してたね。
将来、自分は絶対に出世するんだって、何の根拠もなく思ってた。
小さい頃からの日々の積み重ねが大人になるまで続いてくなんて夢にも思わなかったよ。
中学生の頃通っていた塾の先生が言ってたな。
「俺はあんまり頭良くないから法政にしか行けなかったんだ、ははは。」
クラスのみんなで大笑いしてたっけ。
あの内何人が法政以上の大学に行けたというのだろうね。
毎日会社に通って夜遅くまで働いてるお父さんがいかに大変で偉大かって、やっと分かりました。
転職を繰り返して、人に馬鹿にされて初めて分かりました。
生きるって本当に大変。
何をやっても後悔が待ってるもんね。
特別じゃない。
自分は特別な人間でも何でもないんだって、20代後半になってやっと分かりました。
あの頃、白い眼で見てしまったおじさん、ごめんね。
あなたのぶんまで生きようと思います。
でも、時間が必要だったことだけは分かって欲しいんだ、おじさん。
一夜限りのザ・タイガース
(ラストコンサート日本武道館2012:1:24)
ほぼタイガースの沢田研二コンサート、素晴らしいツアー千秋楽でしたが、途中で登場した岸部シローの印象が強烈過ぎました。
兄の一徳に支えられてゆっくり歩き、「衰えている」どころか誰の目にも「この人はもう長くないかも」な状態。
挨拶も呂律が回らずたどたどしく。
でも、その間を踏まえて笑かせにかかるさすがのMC巧者ぶり。
ついに千秋楽に登場したシローに一万三千の観客は息を呑み、声を聞いてすすり泣き、ここは岸部シローが日本で唯一興味本位でなく歓迎される場所。
そしてジュリーに促されまさかの歌唱。
ピアノ伴奏でビージーズ「若葉のころ」を歌いだす。
声量は無く音程は外れ呂律すら回らず。
心身を病み62歳にして後期高齢者になった岸部シローが歌う「若葉のころ」は、より意味合いが重く変化。
映画「ヤング@ハート」で80歳の老人がコールドプレイ/Fix You を歌ったような。
客席もジュリーも泣いてました。
岸部一徳は口をじっと閉ざし、岸部シローを見つめてた。
僕も、人の歌声でここまで震えたのは初めてでした。
シロー「ジュリー、ありがとう。皆さん、ありがとう。僭越でした」。
退席させようと一徳が腕を取るとシロー「誰や?」、一徳「兄です。」で場内幸せな笑いに。
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