総持寺
承和年間(834-847年)、高房が任地の太宰府に向かう途中、息子の政朝が川に落ちてしまったが、翌朝、政朝が大きな亀の背中に乗って帰ってきたという。この亀は高房が前日に漁師から買い取り、川に放した亀であった。
喜んだ高房は唐人に観音像を刻む香木を探してくるように頼んだ。数十年後、『高房卿の求めに応じて海を渡す』と刻まれた香木が流れ着いたが、この時、高房は既に亡くなっていた。
中納言になっていた政朝は、香木を持って都に行き仏師を探したが優れた人が見つからなかったので、長谷寺に行き観音に祈ったところ、童子が現れた。童子はこの香木を材とし、亀に乗った千手観音を刻んだという。
仁和2年(886年)にこの仏像を本尊として祀ったのが総持寺の創始と伝えられている。
亀について一言: 2世紀頃中国で生まれた道教では仙人が住むという蓬莱山を背負っているのが亀といわれ、中国では亀は竜と共に神聖な動物とされてきたようである。また、亀は神仙思想の世界と現世を繋ぐ動物とも言われているという。
「鎮守社」 「包丁塚」
包丁塚に関しては、先ほどの亀の恩返しの話しの続きがあるのです。
観音様のお告げで童子姿の仏師に仏像の作成を依頼すると、「観音像を刻む
千日間は決して仏舎に入らぬこと、そして中納言藤原政朝(山蔭)自身が
千日間、自分の為に料理を作ること」と告げられます。
そして千日目の朝、山蔭が仏舎に入り確認すると童子は空に飛び立って行き
亀の背に乗っている素晴らしい出来の千手観音像が残されており、
その前には千日間山蔭が作った食事がお供えしてあったそうです。
この「中納言の千日料理」のエピソードから、藤原山蔭は「包丁道の祖」と
崇められるようになり、総持寺では毎年4月18日に「山蔭流包丁式」が行われ、
料理技術の上達を願う料理人や一般の参拝客で賑わうのだそうです。
http://www.sojiji.or.jp/images/p_map2.gif
33か所22番札所総持寺
承和年間(834-847年)、高房が任地の太宰府に向かう途中、息子の政朝が川に落ちてしまったが、翌朝、政朝が大きな亀の背中に乗って帰ってきたという。この亀は高房が前日に漁師から買い取り、川に放した亀であった。
喜んだ高房は唐人に観音像を刻む香木を探してくるように頼んだ。数十年後、『高房卿の求めに応じて海を渡す』と刻まれた香木が流れ着いたが、この時、高房は既に亡くなっていた。
中納言になっていた政朝は、香木を持って都に行き仏師を探したが優れた人が見つからなかったので、長谷寺に行き観音に祈ったところ、童子が現れた。童子はこの香木を材とし、亀に乗った千手観音を刻んだという。
仁和2年(886年)にこの仏像を本尊として祀ったのが総持寺の創始と伝えられている。
亀について一言: 2世紀頃中国で生まれた道教では仙人が住むという蓬莱山を背負っているのが亀といわれ、中国では亀は竜と共に神聖な動物とされてきたようである。また、亀は神仙思想の世界と現世を繋ぐ動物とも言われているという。
「鎮守社」 「包丁塚」
包丁塚に関しては、先ほどの亀の恩返しの話しの続きがあるのです。
観音様のお告げで童子姿の仏師に仏像の作成を依頼すると、「観音像を刻む
千日間は決して仏舎に入らぬこと、そして中納言藤原政朝(山蔭)自身が
千日間、自分の為に料理を作ること」と告げられます。
そして千日目の朝、山蔭が仏舎に入り確認すると童子は空に飛び立って行き
亀の背に乗っている素晴らしい出来の千手観音像が残されており、
その前には千日間山蔭が作った食事がお供えしてあったそうです。
この「中納言の千日料理」のエピソードから、藤原山蔭は「包丁道の祖」と
崇められるようになり、総持寺では毎年4月18日に「山蔭流包丁式」が行われ、
料理技術の上達を願う料理人や一般の参拝客で賑わうのだそうです。
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33か所22番札所総持寺