福島原発処理水の海洋放出が開始されたが、放出に関する、マス・メディアやネット上での「海洋放出反対」意見には考えさせられるものが多い。
意見の多くに共通するのは、処理水の放出反対に加えて、「そもそも原発の存在を否定する」意見が多いように思える。
曰く「原発が無ければ処理水の問題も起きない」と云うもので、正論ではあるが「今更に!!」と思わざるを得ない。
かって、多くの国民は家電に依る生活の向上のための安価な電力を求め、多くの知識人もスエズ戦争によるオイルショックでは地域紛争にも影響されない電力の安定供給を求めた。一方、発電手段について、光発電素子は一部の制御装置に光電管としてのみ使用される程度で大容量光発電の概念すら存在しなかったし、水力発電については洪水調整を目的とした水利ダムの建設すら住民の反対で頓挫する状況で拡充は絶望的であった。それらの要因・時代背景を考えれば、急速に拡大する電力需要を安定的に満たすには地域紛争の影響を受けずに済む原発に求めるほかなかったのではないだろうか。
また、東電の津波対策の不備を問う声も多いが、もし東電が巨費を投じて高さ20mの防潮堤を築き、建設費用の大半を電力料金に転化するとした場合、利用者は予測・想像すらできない災害のために電力料金が上がることに反対したであろうし、一般株主はそれらによって配当が減少することを恐れる以上に「そんな金があるなら配当に回せ」とまで主張したのではないだろうか。
このように考えれば、今回の処理水放出は「行政・国民・財界・企業・言論」の最大公約数的に推進された原発がもたらした必然の結果であり、責任は等しく負うべきものと考える。
反対意見の多くに共通している「処理水放出は政治・企業の責任で、我々は無辜の民」としているものと同じ図式の主張を我々は知っている。
それは「大東亜戦争は政治・外交の失敗で、特に軍部の責任が最も大きく我々は無辜の民以上に被害者である」とする主張が定説とされていることである。そこには「鬼畜米英」「撃ちてし已まぬ」と煽った言論人の責任、戦捷を提灯行列で祝った国民の狂気、政治家よりも軍人の正義を信じる世論などの時代背景は抜け落ち、戦後急増した「俄か・似非反戦転向した論者の保身の影」は見事に消されている。
今様の概念や価値観を以て往時を測る愚は度々書いているが、今回の処理水放出に関してもその轍を踏んでいるように思えてならない。
古人は、時間は戻せないことを承知しながら過去を悔やむことを「死んだ子の年を数える」「繰り言」としている。
処理水の処分は避けて通れぬ現実であって、原発反対・廃炉反対・処理水放出反対だけでは何も解決できない。処理水放出反対を唱える人は、せめてこれは国民全体が招いた事故であることを認識するとともに、個人としては何をすべきかを併せて表明して欲しいものである。
処理水を依然として「汚染水」と叫び続ける社民党などは、原発電力の恩恵を享受しながらも責任の一端すら無しとする似非国民に過ぎないと思っている。、
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