学校行事の国歌斉唱時に不起立で行政処分されたことから、定年後に再雇用されなかった教員の敗訴が確定した。
1・2審ともに、再雇用拒否は東京都の裁量権の逸脱として賠償を命じたものであるが、最高裁で破棄され正義が行われたものと考えたい。それにしても原告の訴因が従来の「国歌の強制は憲法違反」との大上段ではなく「再雇用に関する裁量権の適否」であったことに失望した。既に最高裁で国旗・国歌法が違憲ではないこと、国旗・国歌に対する校長の職務命令の正当性も確定していることから訴因とはなり得なかったのであろうが、彼らの主張を平易に言い換えれば「私たちは法律違反を犯しました。でもこれくらいは許して下さい」という甘えでしかないものに感じられる。彼等の一連の行為は行政処分を受けたことによってリセットされるべきとの考えもあると思うが、彼等の反国家・反日本の主張は消えることは無く、若年者への影響を考えた時には教育現場から当然に排除されるべきであると思う。国旗・国歌に関する類似の判決に対して東京弁護士会は会長声明で「憲法19条に保障された思想・良心の自由の侵害」としているが、思想・良心の自由に基づく行動が他人に与える無形の損害には目をつぶっているようである。法律で使用される良心の定義を知らないので、良心が社会的規範の範囲内でのみ認められるものであるならば、教師の行動は明らかに良心に外れたものである。仮に良心は社会的規範を超越するものであるとするならば、正常な受け答えができない障碍者を「失心(しっしん)者」と呼び、殺害行為は正しいと繰り返し述べているとされる相模原市の養護施設で入居者20人以上を殺傷した犯人は、良心に従って行動したことになる。
憲法でも思想と良心は同じ条文によって保護されていることから、思想と良心は同根で、両者を併せて「信条」とした方が分かり易いのではないだろうか。国家が保障する良心の意味について誰かに教えて欲しいところである。
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