第一章 防人の歌
一
エイ! ホー!
エイ! ホー!
火長、吉志火麻呂の太鼓に合わせて一斉に櫂を漕ぐ防人達。
風にはためく白帆が翼を広げ、火麻呂の軍船が夜明け前の海原を疾走した。
エイ! ホー!
エイ! ホー!
火麻呂が力の限りにバチを太鼓にたたきつけ、
エイ! ホー!
エイ! ホー!
百人の防人が声を合わ、二人一組で櫂を漕ぐ。
四隊の長、校尉雪連白麻呂が舳先に陣取って彼方を睨んでいた。
その横の火麻呂、太鼓で櫂の音頭を取りながら、矢張り海原の彼方に目を凝
らしていた。
船の両側と前方を海豚が群れて軍船と併走していた。
右側の群れの一頭が空中に飛び上がった。
その頭と思しき白く美しい海豚が大きく飛翔しながら火麻呂に近付いて一声
鳴いた。
火麻呂と視線を合わせる白海豚、その眼が優しく笑っているように見えた。
「防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思いもせず」
火麻呂の耳元で誰かが囁いた。
筑紫への道中、そして大野城に赴任してからも時々聞こえてきたあの声だ。
愛妻雅の優しい声に違いない。
恋しさ故の幻聴、なのだろうか?
水飛沫を上げて海中に突っ込む白海豚、物凄い勢いで先頭に踊り出て、群れ
と軍船を先導した。 まるで冥途の水先案内人のようだ。いや、まさに火麻
呂達防人を戦場へと追いやろうとしているのだ。
うっすらと空が明るんだ時、
「おおーッ、雪州が見えてきたぞ」
白麻呂が思わず声を上げた。
目を細めて遠望する火麻呂、水平線に微かに島影が浮かんでいる。
筑紫を出発する時の白麻呂の言葉が火麻呂の脳裏に甦った。
「いきはゆきとも呼ばれておってな、雪の精霊のように美しい島じゃ」
火麻呂の目には雪というよりは裏返しで喘ぐ亀のように見えた。
もっと高い所から見れば雪のように見えるのかも知れない。そう思った火麻
呂はその雪の結晶を無性に見たいと思った。
バチを傍らの隊正、白麻呂の甥雪連黒麻呂に渡した火麻呂が帆柱に駆け寄っ
た。
エイ! ホー!
エイ! ホー!
火麻呂の後を受け継いだ黒麻呂、バチを空中でクルクルと廻しながら太鼓に
打ち付けていく。
太鼓の音頭が華麗に弾んだ分、漕ぐ手に力がみなぎり、船足が一層増した。
するすると帆柱をよじ登る火麻呂。
地平線に昇る朝日。
シルエットになった四隻の軍船が豆粒のようだ。
筑紫を同時に出発した五隻の軍船、飛び抜けて屈強な漕ぎ手を揃えた白麻呂
の軍船が他の四隻を大きく引き離してしまったのだ。
エイ! ホー!
エイ! ホー!
大袈裟な身振りで音頭を取る黒麻呂、今度は両手のバチを小刻みに軽く打ち
続け、
「ホー! ホー! ホー! ホー!」と休みの合図を送った。
三人の隊正と火長達が声を合わせた。
「ホー! ホー! ホー! ホー!」
漕ぐ手を休め、櫂を抱き抱えるようにして身体を休める防人達。
その間に半数の漕ぎ手が素早く交代し、早くも気力を充実させて合図を待っ
た。
引き続き櫂に取り付いている半数はひたすら身体を休めている。
帆柱の頂上から壱岐島を望む火麻呂。
そこにはまさに雪の結晶のように美しい島があった。
そこでは故郷の鴨郷に降る雪が見えた。
真夏の雪の中で火麻呂の意識が跳ねた。
雪の中をひた走る火麻呂。
故郷の丘が遠くに見えてきた。
雪の中を走る火麻呂に比べて、その丘には春が訪れていた。
そこでは、光と翳の中で浮かび上がる斜面に藤衣が一斉に花を咲かせてい
た。
そこには、ふぢの花房の挟間に哀しみに溢れながらも不思議な優しい微笑を
称える雅がいた。
「ホー! ホー! ホー! ホー! 」
空中高く投げられたバチがクルクル廻りながら黒麻呂の右手に吸い付くよう
にして収まった。 間髪をいれずに右足を大きく踏み出す黒麻呂。
「ソーレッ!」
ドン!と、 黒麻呂の逞しい腕が太鼓を轟かせ、防人達が一斉に櫂を漕ぎ始
めた。
エイ! ホー!
エイ! ホー!
いきなり船足が早まり、大波とぶつかり合って軍船が激しく縦に揺れた。
衝撃で我に返る火麻呂、藤浪と見えたのは海豚の群で、雅と見えたのは白海
豚だったのだ。 帆柱から下りた火麻呂が壱岐の方を見ると、炎上する三隻の
大船に、まるで獲物に襲い掛かる蟻の如く、無数の小船が群がっていた。
炎の戦場に、海豚の群れを鏃とし、征矢となった火麻呂の軍船が一直線に突
っ込んでゆく。
風本の烽が白煙を上げ、可須で兵庫の鼓が鳴ったのが三日前の早朝だった。
壱岐の正倉を襲った四隻の新羅海賊はまず対馬に現れ、対馬国守に交易を迫
った。
対馬国守はそれに応えた。いわゆる密貿易である。
海賊は対馬との交易で得た穀物では足りずに、今度は壱岐に現れ、やはり交
易を迫った。
壱岐国守、壱岐直鹿人は大宰府に急使を出して可否を伺い出た。運悪く新羅
嫌いの大伴古麻呂が大宰府に赴任していた。
古麻呂は当然の事として追い払うように命じた。
すごすごと引き下がり、彼方に消えた新羅船。だが翌早朝に賊に豹変して風
本の兵糧庫を襲ったのだ。
白麻呂の率いる軍船が戦場に着いた時、既に戦闘は終わっていた。
三隻が沈没、一隻だけが逃走した。僅かな残党だけが沖の小島に逃れたとい
う。
2016年12月7日 Gorou
一
エイ! ホー!
エイ! ホー!
火長、吉志火麻呂の太鼓に合わせて一斉に櫂を漕ぐ防人達。
風にはためく白帆が翼を広げ、火麻呂の軍船が夜明け前の海原を疾走した。
エイ! ホー!
エイ! ホー!
火麻呂が力の限りにバチを太鼓にたたきつけ、
エイ! ホー!
エイ! ホー!
百人の防人が声を合わ、二人一組で櫂を漕ぐ。
四隊の長、校尉雪連白麻呂が舳先に陣取って彼方を睨んでいた。
その横の火麻呂、太鼓で櫂の音頭を取りながら、矢張り海原の彼方に目を凝
らしていた。
船の両側と前方を海豚が群れて軍船と併走していた。
右側の群れの一頭が空中に飛び上がった。
その頭と思しき白く美しい海豚が大きく飛翔しながら火麻呂に近付いて一声
鳴いた。
火麻呂と視線を合わせる白海豚、その眼が優しく笑っているように見えた。
「防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思いもせず」
火麻呂の耳元で誰かが囁いた。
筑紫への道中、そして大野城に赴任してからも時々聞こえてきたあの声だ。
愛妻雅の優しい声に違いない。
恋しさ故の幻聴、なのだろうか?
水飛沫を上げて海中に突っ込む白海豚、物凄い勢いで先頭に踊り出て、群れ
と軍船を先導した。 まるで冥途の水先案内人のようだ。いや、まさに火麻
呂達防人を戦場へと追いやろうとしているのだ。
うっすらと空が明るんだ時、
「おおーッ、雪州が見えてきたぞ」
白麻呂が思わず声を上げた。
目を細めて遠望する火麻呂、水平線に微かに島影が浮かんでいる。
筑紫を出発する時の白麻呂の言葉が火麻呂の脳裏に甦った。
「いきはゆきとも呼ばれておってな、雪の精霊のように美しい島じゃ」
火麻呂の目には雪というよりは裏返しで喘ぐ亀のように見えた。
もっと高い所から見れば雪のように見えるのかも知れない。そう思った火麻
呂はその雪の結晶を無性に見たいと思った。
バチを傍らの隊正、白麻呂の甥雪連黒麻呂に渡した火麻呂が帆柱に駆け寄っ
た。
エイ! ホー!
エイ! ホー!
火麻呂の後を受け継いだ黒麻呂、バチを空中でクルクルと廻しながら太鼓に
打ち付けていく。
太鼓の音頭が華麗に弾んだ分、漕ぐ手に力がみなぎり、船足が一層増した。
するすると帆柱をよじ登る火麻呂。
地平線に昇る朝日。
シルエットになった四隻の軍船が豆粒のようだ。
筑紫を同時に出発した五隻の軍船、飛び抜けて屈強な漕ぎ手を揃えた白麻呂
の軍船が他の四隻を大きく引き離してしまったのだ。
エイ! ホー!
エイ! ホー!
大袈裟な身振りで音頭を取る黒麻呂、今度は両手のバチを小刻みに軽く打ち
続け、
「ホー! ホー! ホー! ホー!」と休みの合図を送った。
三人の隊正と火長達が声を合わせた。
「ホー! ホー! ホー! ホー!」
漕ぐ手を休め、櫂を抱き抱えるようにして身体を休める防人達。
その間に半数の漕ぎ手が素早く交代し、早くも気力を充実させて合図を待っ
た。
引き続き櫂に取り付いている半数はひたすら身体を休めている。
帆柱の頂上から壱岐島を望む火麻呂。
そこにはまさに雪の結晶のように美しい島があった。
そこでは故郷の鴨郷に降る雪が見えた。
真夏の雪の中で火麻呂の意識が跳ねた。
雪の中をひた走る火麻呂。
故郷の丘が遠くに見えてきた。
雪の中を走る火麻呂に比べて、その丘には春が訪れていた。
そこでは、光と翳の中で浮かび上がる斜面に藤衣が一斉に花を咲かせてい
た。
そこには、ふぢの花房の挟間に哀しみに溢れながらも不思議な優しい微笑を
称える雅がいた。
「ホー! ホー! ホー! ホー! 」
空中高く投げられたバチがクルクル廻りながら黒麻呂の右手に吸い付くよう
にして収まった。 間髪をいれずに右足を大きく踏み出す黒麻呂。
「ソーレッ!」
ドン!と、 黒麻呂の逞しい腕が太鼓を轟かせ、防人達が一斉に櫂を漕ぎ始
めた。
エイ! ホー!
エイ! ホー!
いきなり船足が早まり、大波とぶつかり合って軍船が激しく縦に揺れた。
衝撃で我に返る火麻呂、藤浪と見えたのは海豚の群で、雅と見えたのは白海
豚だったのだ。 帆柱から下りた火麻呂が壱岐の方を見ると、炎上する三隻の
大船に、まるで獲物に襲い掛かる蟻の如く、無数の小船が群がっていた。
炎の戦場に、海豚の群れを鏃とし、征矢となった火麻呂の軍船が一直線に突
っ込んでゆく。
風本の烽が白煙を上げ、可須で兵庫の鼓が鳴ったのが三日前の早朝だった。
壱岐の正倉を襲った四隻の新羅海賊はまず対馬に現れ、対馬国守に交易を迫
った。
対馬国守はそれに応えた。いわゆる密貿易である。
海賊は対馬との交易で得た穀物では足りずに、今度は壱岐に現れ、やはり交
易を迫った。
壱岐国守、壱岐直鹿人は大宰府に急使を出して可否を伺い出た。運悪く新羅
嫌いの大伴古麻呂が大宰府に赴任していた。
古麻呂は当然の事として追い払うように命じた。
すごすごと引き下がり、彼方に消えた新羅船。だが翌早朝に賊に豹変して風
本の兵糧庫を襲ったのだ。
白麻呂の率いる軍船が戦場に着いた時、既に戦闘は終わっていた。
三隻が沈没、一隻だけが逃走した。僅かな残党だけが沖の小島に逃れたとい
う。
2016年12月7日 Gorou