glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

別れ

2020-04-15 10:28:47 | 家族・友人・私
 甥によるとコロナウイルスを避けるため姉の告別式はしないということでした。また、家族間の接触はしないようにするということでした。昨日は姉に別れを言うために東京に行きましたが、電車で行くと数回乗り換えなければならないので車で行きました。遺体が安置されている葬儀社までは50キロ余りです。神奈川県はすいすい走ったのですが、東京都に入ると渋滞が起こり、のろのろと2時間ほどかかりました。それに10か月ぶりの高速道路走行はさすがに緊張し、疲れました。

 まだ化粧はしていないという甥の言葉通り、姉は素顔でした。朝食と夕食は自分で用意していましたし、買い物がない日は散歩をしていた姉の顔は日焼けし、まるで健康な人が眠っているような感じでした。晩年は気難しくなっていました。5~6年前、ヘルパーさんを頼んでの暮らしをしようと試みたとことがあります。ところが一回で打ち切りました。上から目線でものを言うヘルパーさんの態度が気に入らなかったようです。できなくなったからお願いしたのに、手伝いますから自分でやれというのはどういうことと怒っていました。その会話の経緯は私に分かりませんでしたが、指圧師になるの前の姉の仕事を思いだしました。それは姉にとって自分が選んだ仕事でした。彼女にとって第2の青春とべき時代だったでしょう。

 1960年か61年のことです。姉は私に’あなたとオナジこと勉強始めたの!昨日あなたの先生にあったので〇子の姉ですとあいさつしておいたと言われて驚きました。1950年代末売春禁止法ができ赤線が禁止されました。逮捕された売春婦の多くは自立できない人が多かったそうですが、当時は福祉を学んだ人は少なかったのです。大学が東京と名古屋、短大が大阪、そして東北には新設されたばかりの大学と全国で4校しかありませんでした。そこで東京都は短期間で職員を育成するため、社会事業学校を立ち上げました。この学校が幾年続いたかは知りませんが、姉は第1期生となり、卒業後に婦人相談員となり、元売春婦の更生の手伝いをしていました。当時、私はエスペラントを始めたばかり、それに社会調査とか実習とか卒論で忙しく彼女の話にはあまり付き合いませんでした。それでも今日あった子は着るものがないというので見たら数枚のブラウスのボタンが取れているのにつけ方を知らなかった。付け方教えたら、××さん凄いと喜んでた。そして教えたらできるようになったとか、売春をする子の多くは少し知的に遅れているので人に騙されやすい。少し時間をかけて教えれば色々できるようになるのよ。きちんと教育を受ていない人が多いのよね、賢い娘はたとへ売春しても決してつかまるようなへまはしないなどと話していたのを記憶しています。
 数年後東京都の機構改正で非常勤職員を廃止するということになり、正規職員として定年までケースワーカーとして福祉事務所で働きました。ケースワーカーとしての経験がヘルパーさんの言葉への強い反応として出たのでしょうか。
 定年数年前に夜学の指圧師学校に通い、資格を得て、定年後に夫と開業したのが指圧院だったのです。世話好きで、働くことが本当に好きだったのですね。よく働き、頑張って生き抜きました。このブログの中でも時々姉に対する不満を書いていますが、あなたの生き方は私の見本になるかもしれません。
 【合掌】
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 姉の青春 | トップ | カタリンさんのインタビュー... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Lignpontoさんへ (glimi)
2020-04-16 08:49:33
ありがとう!
返信する
人生 (Lignponto)
2020-04-16 08:32:03
お姉さんは、色々とご苦労があったかもしれませんが、生ききった素敵な人生だったのかも知れませんね。合掌
返信する

コメントを投稿

家族・友人・私」カテゴリの最新記事