ニッポン放送の飯田浩司アナウンサー
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飯田 浩司(いいだ こうじ、1981年12月5日 - 43歳)は、ニッポン放送コンテンツプランニング(CP)局アナウンス室所属のアナウンサー。
神奈川県横須賀市出身で、生誕地は東京都大田区西蒲田である。
幼少期は横浜市保土ヶ谷区に居住し、小学校に上がる前に父方の祖父母が居住していた出身地の横須賀に転居し、大学卒業まで居住した。
大矢部小学校在校中の小学6年時、放送委員会に所属し[4]、ちょうどその頃テレビの競馬中継を見ていたことで実況のカッコ良さを知ったことから、運動会でのアナウンスで徒競走で競馬中継調で実況をしたところ、父兄らにウケるなど周りの評価を得たことで「喋りでこんなに盛り上がってもらえて面白い」と思ってアナウンサーになることを目指す[注 3]。
神奈川県立追浜高等学校を卒業後、横浜国立大学経営学部国際経営学科に入学した。
学生時代はイベントサークルに所属し、大学祭実行委員会で活動していた。また、アルバイトは実家の近所に所在するセブン・イレブンの深夜シフト担当や塾講師として世界史の講師を担当し、アナウンススクールとして、ラジオNIKKEIのレースアナウンサー養成講座に通っていた[5]。
大学3年の秋からアナウンサー専門職での就職活動を行っていたため、民放キー局から始まり、準キー局[6]、基幹局(北海道、福岡)、岡山の放送局を受験し、その中で内定を得たニッポン放送に卒業後の2004年4月に入社した。
同期社員は、編成局ディレクターの長濱純[7][8]。また、大学の先輩に2001年に入社した元同局・フジテレビアナウンサーで、現在はフジテレビ報道局企画取材部総務省担当記者の冨田憲子、後輩で部下にも当たる2020年の新人アナウンサーである内田雄基が居る。
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プライベートでは、2011年6月14日に担当番組だった『小倉智昭のラジオサーキット』の中継コーナーで知り合った2歳年上の一般人女性と交際を経て結婚した[13]。
この式の司会を務めたのが『ラジオサーキット』のメインパーソナリティでもある小倉智昭であり、そのことについて言及することがある。
その後、2015年2月19日放送の『ザ・ボイス』の番組放送中、共演者である青山繁晴(当時:独立総合研究所社長)にバラされる形で、同年2月16日に男児を授かったことを番組内で報告した[14]。
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が10日、ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」(月~金曜午前6時)に出演し、9日に77歳で亡くなったフリーアナウンサーの小倉智昭さんに感謝の言葉を送った。
番組冒頭、飯田アナは「この朝の番組、2018年の4月から始まって、かれこれ6年、7年目に入っている、というところですが、朝の番組の、ニッポン放送だけじゃなくてメディア全体の系譜と考えても大きな足跡を残したのが、訃報が伝えられた小倉智昭さんであります」と切り出し、1999年からフジテレビ系「とくダネ!」で朝の顔を務めたことを紹介。
「4452回。同一司会者による全国ネットのニュース・情報番組の放送回数最多記録を更新した、ということでありました。
『とくダネ!』そのものは2021年の3月まで続いていたということでありまして」と話した。
続けて「その小倉さんのキャリアの中で、このラジオ、そしてニッポン放送というものも、ちょうど小倉さんが東京12チャンネルからフリーになられて大橋巨泉事務所に所属されて。
そして大橋巨泉さんが、このニッポン放送で『日曜競馬ニッポン』という番組をやっていて、そこで実況で小倉智昭さんもいらっしゃった」と回想した。
「私自身は、『小倉智昭のラジオサーキット』という番組と出会って、本当に人との出会いによって、人生というのはこうも変わるのか、ということを思い知らされたようなところがありました」と、小倉さんとの出会いも紹介。
「(自分が)本当にくすぶっていたところで、何の仕事もなくて、『おまえはとりあえず、土曜に小倉さんの番組始まるから、中継コーナーでもやってみろ、リポーターでもやってみろ、おまえどうせ、それ以外に仕事ないんだろ?』って風に言われて。
当時のチーフディレクターに呼ばれてやらせてもらったのが最初」と説明した。
それが転機となったという。
「小倉さんに『おまえ、リポート、適当なことを言ってやればいいから』って言ってもらって、好き勝手やればいいんだ、ってなかばヤケっぱちみたいな感じだったんですけど。
町のリポートでそこでビール飲んだりとか、今だったら考えられないですけどね。
そんなことをしていたら『おまえ、面白いじゃないか』って言って、『あなたとハッピー』の中継コーナーとかで使ってもらった」と振り返り「そこからのある意味、アナウンサー人生を変えてくれたような人でもありました。
もちろん、人生全体としても、今の妻、伴侶と出会ったのも、この小倉さんの『ラジオサーキット』のリポートのコーナーでもあった、というところだったんです」と語った。
ここで小倉さんと飯田アナが共演した番組のアーカイブ音声を放送。
飯田アナは「ちょっと僕がしくじったりなんかすると、すぐフォロー入れてくれたりなんかして、こうやって話を回していったらリポートというのはうまくいくのかな、って1個1個、OJT(オンザジョブトレーニング)で教えてくれたような方でもありました」と感謝した。
さらに「その中で、当時流行り始めた婚活パーティーの潜入取材というのをやって、そこで妻と出会って。
結婚式の時も主賓でお願いしたんですけれども、
『ふざけんな。主賓なんかじゃオレは出ない。
オレは世話になったやつには司会をやってやるんだ!』と」と小倉さんの粋な結婚祝いを回想。
「そんな、小倉さんのギャラなんか出せないですよ、と言ったら『バカヤロウ!タダでやるんだよ!』と言ってね。
お車代包んで行ったんですけど『バカヤロウ!いらないって言っただろう』と言って、突き返して、さっそうと帰っていた。
その背中をすごく思い出すんですが」と語ると、声を詰まらせた。
飯田アナは「がんで闘病、77歳で力尽く。昨日、9日亡くなったということで」とあらためて触れると、「しかし、77歳は早い…。もっと生きたかった、もっと教えてもらいたかった。本当に、孝行したい時にいないというのはつらいですね。感謝を伝えられるときに伝えなきゃいけない、というのを思い知った」と涙をこらえ感謝。
「本当に本当に、ありがとうございました。慎んでご冥福をお祈りいたします」と言葉を送った。
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