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ザ人物伝 相田みつを67歳没脳内出血 日本の詩人・書家。

2021-09-11 15:37:01 | 連絡
相田 みつを(あいだ みつを、本名:相田 光男、雅号:貪不安(ドンフアン)[1]、1924年5月20日 - 1991年12月17日、67歳没)は、日本の詩人・書家。平易な詩を独特の書体で書いた作品で知られる。書の詩人[2]、いのちの詩人[3]とも称される。
〇生い立ち
1924年、栃木県足利市に6兄弟の三男として生まれた。生家は名刹、鑁阿寺(ばんなじ)の東に位置していた[4]。旧制栃木県立足利中学校在学中に書や短歌、絵に親しんだが[5][6]、喫煙の濡れ衣をきせられ[7]軍事教練の教官に嫌われたために進学を断念[3]。卒業後は
歌人・山下陸奥に師事した。1942年、歌会で生涯の師となる
曹洞宗高福寺
の武井哲応
わが師を語る―武井哲應(たけいてつおう)の教え― 
一番の根っ子になっているのは、私は、自分が四十数年間、在家のままですけれども師事してきた武井哲應老師(明治四三年秋田県羽後町生まれ。昭和一六年足利市の高福寺住職。昭和六二年七七歳で遷化) だと思うんですね。武井老師の影響が私の場合には一番大きいと思うんですね。それが私にとっては根っ子だと思うんです。そのことを実はこの言葉の中に私は込めたつもりなんです。
と出会い、在家しながら禅を学んだ[5]。
1943年、書家を志して
岩沢渓石
に師事、本格的に書の修行を積んだ[5]。1953年3月、関東短期大学卒業 
〇創作活動
相田は書の最高峰のひとつとされる毎日書道展に1954年から7年連続入選するなど、技巧派の書家として出発した[2]。1947年の鄭道昭の臨書・「鄭文公碑臨書」で古典書道における実力を示す一方、1950年に栃木県芸術祭書道中央展に出品した「宿命」では、伝統的な書道界に対する複雑な思いを詩文書の形で吐露[5]。専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱き、「書」と「詩」の高次元での融合を目指すようになり、三十歳のころ、独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書く作風を確立した[8]。1954年、最初の個展を足利市で開催。個展はその後も足利市などで毎年開催されるようになった。1955年ろうけつ染めを学び、書道教師ではなく、ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負うなどして生計を立てていたが[2][4]、1974年、教えを受けていた紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』で紹介され、さらに1984年、詩集『にんげんだもの』出版が契機となり、広く知られるようになった。『にんげんだもの』はその後ミリオンセラーとなり[8]、つづく第2詩集の『おかげさん』(1987年)も約25万部のベストセラー[9]、地位を確立した。若き日には、故郷足利市の老舗菓子店
「虎谷」

のミートサブレ(命名者も相田で「逢」のMeetが由来で)などの、包装紙や栞のデザインも手がけた[10][11]。
1991年、道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院したが、脳内出血と診断され、それが原因となり急逝。最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、長男・一人との最期の会話になった[12]。67歳没。
作品に対して妥協を許さず、「逢」というたった一文字を書くために何百枚何千枚と紙を使用したり、印刷のわずかなズレや墨の色の微妙な違いから印刷済みの色紙千枚がボツになったこともあったという[13]。挫折を乗り越えてつくりあげられた作品には自らの実生活が重ね合わされているのが特徴である[3]。
〇著書
50冊近い「相田本」はロングセラーを続け、累計1,000万部に迫るとされる[27]。 

禅と詩歌-相田みつを 
https://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-aida/aida1.htm



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