というエッセイがあったように思いますが別の話です。
昨晩は郷ヒロミにうなされたものの、早寝の甲斐あって今日は回復基調にあります。
昨日自滅した感のあった対中日最終戦が雨天中止になったのも精神衛生上良かったのかもしれません。
となると、外出を自粛していてすることがない。
しかも
難しい本を読む気力はない。
DVDも借りていない。
ということで、ベッド脇にサイドテーブルを持ち込み、半身起き上がりながら昨日あたためて飲んだ残りの赤ワインとオリーブなど若干のつまみで、池波正太郎『食卓の情景』を読むという極楽モードに。
単行本の出版は昭和48年ですが、今失われてしまっている「古きよき時代」のものは、その当時既に失われつつあったということが伺えます。
また、今では味わえない店や風物を書いていても魅力的なのは、食にまつわる蘊蓄でなくスタイルについて書いているからだと思います。
それ以上私が語るのは野暮なので、あとはお読みいただければと。
で、一杯機嫌でこのようにブログの更新しようとPCを起動したついでに内田センセイのブログなどを拝見。
今日のエントリは「卒論中間発表」
定型性と攻撃性は不即不離の関係にある。定型にはある種の攻撃性を抑制する効果がある。だからひとは定型をふまえているかる限り「安心して」攻撃的になることができる。
いっぽうで
オリジナルな文体で書かれた学術論文って、「こっぱずかしい」ことばかり書き連ねてあるから、読み手の「失笑」を買うしかないからである。おのれの攻撃性に配するに失笑を以てする。たぶん、私はそんなふうにして自分が分泌している「毒」を制御していたのであろう。
定型性と攻撃性、「破格」の無力さ。
確かにお怒りの手紙は文面で怒鳴り散らされていてもあまり伝わらないですね。
逆に文章でなくても定型的な役割に自分をあてはめると、人間は攻撃的になることがあります(昔ドイツかどこかで一般人を看守と囚人に分けた実験がありましたね)。
また、e-mailなどで「オッサン、そりゃ違うだろ!」などという代わりに、慇懃な中に毒を秘めた文章を書いているときは、"dark side of the force"を感じてしまうことがありますね(^^;
それとかなり古いエントリ「スーパー負け犬くんはいかにして生まれたか?」
人生の達成目標を高く掲げ、そこに至らない自分を「許さない」という生き方は(ごく少数の例外的にタフな人間を除いては)、人をあまり幸福にはしてくれない。
あまり言う人がいないから言っておくが「向上心は必ずしも人を幸福にしない」。
幸福の秘訣は「小さくても、確実な、幸福」(@村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。
本文もなかなか面白いのでぜひお読みいただきたいのですが、後ろの2文はこの不景気のご時世によく言われていたことなのですが、大事なのは最初の文ではないかと。
確かに「そこに至らない自分を「許さない」という生き方」は人をあまり幸福にはしないと思いますが、だからといって「向上心を全く持たない」ことは人生をあまり豊かにしないように思うのですが。
だんだん調子が戻ってきたようです。
今日も早めに寝るとしましょう。