一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

学校の役割についての混乱

2006-10-27 | よしなしごと

福岡県での教師のいじめによる中学生の自殺についての報道を見て、論外な教師がいたもんだ、という驚きはともかく、自殺の原因がいじめによるものかそうでないのか、学校がその事実を隠蔽したか、という文脈で他の学校にも広がっていったことにちょっと違和感がありました。

乱暴な言い方をすれば、いじめというのは社会に出てからもいくらでもあります。
それが

ためにする非難・讒言なのか正当な批判なのか
(北朝鮮の核実験を非難する人の中にも、核不拡散禁止条約は現状追認・核大国の影響力を維持するためのものだという意見を持っている人がいるかもしれません)

権力をかさに着た乱暴狼藉なのか多少個性的な権限の行使なのか
(記事を読んで学校を非難している人が、仕事ではサービス残業や下請けへのコストカットを求めたり、債権回収を業としているかもしれません)

えこひいきなのか、正当な評価なのか

理屈抜きの排除なのか、本人に理由があるのか
(中学のときに体操服を忘れてロッカーの奥で腐らせかけたのを着て体育の授業に参加した奴がいました)

というのは常に微妙なわけで、大事なのは何がいけないことでどういう行為がやりすぎなのか、逆に自分がターゲットになったときにどう対応するのか(反論する、味方を作る、非を認める、誰かに助けを求める、ほとぼりが冷めるのを待つ)という「世の中の知恵」とか「まっとうな正義感」を身に付けることだと思います。
これには一つの正解というものはないので、教師の仕事は学級でやりすぎがあったらそれをしかる、というような形で突出した部分をダメ出ししながら生徒が自然に学ぶのを待つしかないと思います。

なので、生徒の自殺について結果責任を問うようなことは、逆に「(いじめで)自殺をさせてはいけない」という教師の矮小化した対応を助長してしまうように思います。

今回のような「教師が率先して追い込んだ」というわかりやすすぎるケースが学校で起こってしまうというのは残念ですが、普通は自殺というのはいろんな複合的な要因が重なって起きるものではないでしょうか。
それをすべて教師が防ぐ、というのも現実的には不可能だと思いますし、「原因究明」も反省し将来に生かすためだったらいいのですが、犯人探しのためにするとなると泥仕合になって何も生まない可能性があると思います。


※ ちょっと話がそれますが自殺と責任、という面で妙だと思ったのがのぞみの人身事故がJR東海社員の自殺だった件で、JR東海の社長が「多くのお客様にご迷惑をおかけし、おわび申し上げます」と謝罪したことです。
市バスに飛び込んだら謝罪しなかったのでしょうか。


などと考えていたら

高校必修逃れ、35都道県249校に拡大
(2006年10月27日(金)03:02 読売新聞)

受験のために関係のない科目は教えない、ということは、高校自体が受験のための予備校になることを認めているわけで、それこそ少子化の中での生き残りのためには自殺行為なのではないかと思います。
ひょっとしたら一生使わないかもしれないけどいつか役立つかもしれないこと、とか、日本人(〇〇県民)として知っているべき知識などというものは、若いうちに叩き込まないと身につかないし、若者も(大概は)自発的に学んだりしないからこそ、学校で教える必要があるのではないでしょうか。

実際、そういう「根雪」の部分の厚みや引出しの広さのありがたみがわかるのは年とってからなんですよねぇ・・・

※ 受験対策だけに絞るのなら、高校には行かずに予備校と大検で受けるのが一番効率的ですよね。

※ 「履修させない」という手があるなら、教科書検定に反対するなんててんで生ぬるいですよね・・・


この2つのニュースを見ると、「学校の役割」についての共通認識に学校(教師)側と父兄(世間)側にずれがあり(世間が正しい、という意味ではありません)、また、学校自身も混乱しているように思えてなりません。

コメント (2)
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