無料ためし読み! 『さよなら、田中さん』【第1回】
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日本列島騒然の中学生作家、鈴木るりかデビュー作。「12歳の文学賞」で史上初の3年連続大賞を受賞し、審査委員のあさのあつこ氏、石田衣良氏、西原理恵子氏から大絶賛を受けた著者のデビュー作を全9回の短期集中連載で全文公開します。是非、この新しい才能を感じてくだ『さよなら、田中さん』ためし読み【第1回】
違うんだ、本当にそんなんじゃないんだ。
あっという間に女子たちに取り囲まれ、そう繰り返す僕だったが、視線の冷たさは変わらなかった。
「ううん、確かに覗いてたよ、戸の隙間から」
「いやらしい。サイテー。エロ信也っ」
「だから違うんだってば。ちょっと開いてたから、あれ? って思って、閉めようとしたら」
「またーっ。そんな言いわけ信じると思う? 自分で開けて覗いてたんでしょ?」
「そんなことするわけないよっ」
五、六時間目の体育の授業は、水泳だった。しかしプールに隣接する更衣室が工事中のため、この日は、男子は多目的室、女子は教室で着替えることになった。僕は朝からお腹の調子が悪かったので、見学届けを出していた。そして授業が終わり、しばらくしてから、教室の前に戻ってくると、いつも出入りする戸の反対側が、わずかに開いていたのだ。
あ、閉めなきゃ。反射的にそう思って、手を伸ばしたところ、ちょうど教室内からも、開いていることに気がついた松岡沙羅さんが来て、あ、と思ったらばっちり目が合ってしまったのだ。その後は、松岡さんの悲鳴、駆けつける女子、取り囲まれ締め上げられる僕。
「そもそもさぁ、今日プール見学にしたのだって、覗きのためじゃない? 最初からそのつもりだったんだよ。計画的犯行ってやつ」
「うわっ、三上、将来犯罪者決定」
「サイテー、女の敵」
口々に言う。こうなるともう止まらない。ただでさえ女子には、日頃から口ではかなわないというのに。泣きたくなった。いや実際本当に涙が流れた。
「泣けばすむと思ってんの?」
「泣くくらいなら最初から覗きなんかするなっ」
「エロで泣き虫って、どうしようもないよ」
ますますひどくなる。涙が止まらない。
「まあまあ、もうそのへんでいいんじゃないの」
田中さんだった。
「えーっ、花ちゃん、こんなやつの味方すんの?」
「そういうわけじゃないけどさ。本人違うって言ってるし」
「僕、ほんと、に、やって、ない」
しゃくり上げながらやっとの思いで搾り出すように言う。
「そんなの、信じらんないよ」
「そうだよ。こういうおとなしいやつが実はアブナいってパターンなんじゃないの?」
「むやみにクラスメートを疑うのはよくないよ。それにもうほとんど着替えは終わっていたしさ」
「でも」
まだほかの女子たちは不満そうだった。
「ま、証拠もないわけだしさ。悪魔の証明って言って、やっていないことを証明するのはすごく難しいんだから」
「え、何それ、悪魔の証明? 怖いの?」
「いや違う違う」
女子たちの興味がちょっとそっちへそれた。
「だからね、例えば『北町に蛇はいる』っていうのを証明するには」
田中さんが話を続ける。女子は熱心に耳を傾けている。そうこうしているうちに着替え終わった男子が戻ってきて、担任の木戸先生も教室に入ってきた。
「はい、皆さん、席に着いて。帰りのホームルームが始まりますよーっ」
助かった。
「た、田中さん。あの、あの、あ、あり、がと」
席に着きながら言った。九月に席替えがあり、田中さんの隣になったのだ。
「別に、全然。でもさ、三上君も、気をつけたほうがいいよ。スイカ畑で靴ひもを結び直すな、とか、すももの木の下で冠を正すな、ってお母さんがよく言ってるよ」
「どういう意味?」
「疑われるような行動は慎めってこと」
田中さんは物知りだ。よく本を読んでいるし、塾に行っている僕よりも成績がいい。ピアノだって習っていないのに、幼稚園から教室に通っていた僕よりずっと上手く弾ける。僕より背も高いし、足も速い。今日だって田中さんがいなかったらどうなっていたか。
しかし事はそれで終わらなかった。女子の間で僕は「エロいやつ」として確定され、以降エロ神(名前の信也ともかけて)と呼ばれるようになってしまったのだ。
しかも五年生の時、やはりプールの授業の後、女子更衣室から川崎美奈さんのパンツがなくなり、隣のクラスまで巻き込んでちょっとした騒ぎになったが、結局見つからず、そのまま迷宮入りとなった事件(その際、ナナフシに似た風貌で、パンツ、パンツと連呼した木戸先生が、なお一層女子に嫌われるというおまけ付きで)、なんとその犯人も、いつの間にか僕だということになっていたのだ。
これに関しては、いや、覗きの件に関してもだが、僕は絶対に白、天地神明に誓ってやっていない。完全に冤罪だ。声を上げて主張したいが、下手にそんなことをしたら、また女子が束になって、それを上回る勢いで僕を攻撃してくるだろう。悔しいが、おとなしくこの状況に甘んじるしかない。しかし六年生の九月にこの烙印はきつい。あと半年、エロ神のまま過ごさなくちゃならないなんて。僕のことは、隣のクラスの女の子たちにまで伝わっているらしく、みんな、遠巻きながら僕に向けるその目は、完全に変態を見るそれだ。
クラスのほとんどの女子は、僕のことを「エロ神」と呼ぶようになったが、田中さんだけは変わらず「三上君」だった。
「花ちゃん、エロ神の隣なんてかわいそ」
ほかの女子にそう言われても、田中さんは「ははは」と笑っているだけだった。
ある日、学校から帰ると、お父さんが珍しくこの時間に家にいて、お母さんと話をしていた。
「三丁目のビル、山口建設に頼んだんだけど、やっぱりそうなのか」
「ええ、らしいわ。女の人であんな仕事をしているのは珍しいな、と私も思って顔を見たら、どこかで見覚えがあって。現場責任者に確認したら、やっぱりそうだった」
「田中、だっけ? 信也と同じクラスの」
「そうそう、母子家庭だとは聞いていたけど、ああいう仕事だとは知らなかったわ」
「まあ、別に、どうってことはないだろう。子供同士が同級生なだけで、仕事は仕事さ」
「そうよね」
田中? 母子家庭? 同じクラスの? あ、田中さん、田中花実さんのことか。
どうやら田中さんのお母さんが、僕ん家の会社の仕事をしているらしい。
ちょっとドキドキした。見に行ってみようかな。
工事現場には近づいちゃいけないと言われていたけれど、今ビルを建築している現場は塾の通り道なので、さりげなく覗いてみようと思った。
お父さんは、不動産管理会社をやっている。地主だったおじいちゃんから土地を引き継いで、そこに貸しビルやマンションを建てて、それを管理運営しているのだ。
その日は、土曜だったが登校日で、家に帰って早目に昼食を済ませると、いつもより早く家を出た。今ならちょうど昼休みだ。定食屋さんやラーメン屋さんに行ってお昼を取る作業員の人もいるが、汚れた衣服を気にしてか、コンビニ弁当をあらかじめ買ってきている人や、お弁当を持参している人も多い。
行ってみると、やはり現場から少し離れた場所で、お弁当を食べている人たちがいた。さらにそこから少し離れたところに女の人が一人いた。地べたにあぐらをかいている。僕は女の人があぐらをかいているところを初めて見た。ドカベン、というのだろうか、どでかい弁当を、かっ食らっている。それはまさに、かっ食らうという表現がぴったりで、アルミ製の弁当箱を抱え込んで、白飯を勢いよくかっ込んでいた。がるるるっ、という唸り声が聞こえてきそうな、猛烈な食らいつき方だった。しかしそれは実にうまそうなのだった。ただの白飯が、これほどまでに美味しそうに見えたのは初めてだった。
田中さんのお母さんは、痩せていて、よく日焼けしていた。田中さんとはあまり似ていなかった。
僕の視線に気づいたのか、田中さんのお母さんが顔を上げた。頬袋にエサを溜め込んだリスみたいに膨らんだ頬で、豪快に咀嚼しながら、こっちをまぶしそうな顔で見ている。
「あ、あの、僕、北町小学校の六年で、三上信也です。田中さん、田中花実さんと同じクラスで」
近くに行って、そう言うと、
「ああ」
田中さんのお母さんが赤い水筒をぐいっとあおる。水筒の底に、『花実』と太いマジックで書かれていた。ゴクリと飲み下すと、
「花の同級生?」
と聞いてくる。
「はい。九月から、席が隣になって。田中さんから聞いてませんか?」
「いや。なんにも。全然」
ちょっとがっかりした。でも田中さんらしいと思った。
「どこか行くの?」
僕が背負っているリュックを見て言ったようだ。
「あ、塾です」
「へえ、すごいじゃん。そんなでかいリュックしょってるから、これからどっか山登りにでも行くのかと思ったよ」
一瞬、本当にそうならどんなにいいだろうと思った。
「中にテキストとか問題集とかいっぱい入ってて。あと夜のお弁当とか」
「弁当持ちで塾行ってんのかい」
「はい、帰りは十時近くなんで」
「ひゃーっ、博士にでもなるつもりかい?」
がははは、とよく響く声で笑う。
「じゃあ、僕、塾があるんで」
立ち去ろうとすると、田中さんのお母さんが、
「あ、これからも花実と仲良くしてやってね」
にかっと歯を見せて言う。
「あ、はいっ。はいっ、もちろんですっ」
思わず力が入ってしまった。
塾の授業が始まってからも、いつも以上に上の空だった。
仲良くしてやってね。仲良くしてやってね。
田中さんのお母さんは確かにそう言ったのだ。こういうのをなんと言うのだっけ? お墨付き? いや、公認? いやいや、それじゃあまるでアレだな、なんか。
「三上君、今の説明わかった?」
「あ、はい」
突然指されてハッとした。なんの説明だっけ? まあいいや。先生もそれ以上突っ込んでこない。
僕の通っている塾は、成績順にクラス分けされていて、僕が所属しているのは最下位のクラスだ。僕たちが陰で「お客さん」と呼ばれていることも知っている。塾に言われるままにあれもこれもと講義を目一杯取らされ、ただただそれを消化するだけ。塾側からは全く期待されていない。有名校に合格して進学実績を上げ、来年の生徒募集の吸引力になるような塾生には決してなれない。ステップアップだの実力強化だの逆転可能だのの惹句を並べて、一コマでも多く受講させ、授業料を搾り取るためだけの要員。
そんな扱いをされてまでなぜ行くのかというと、親が「子供は塾に行っている。だから大丈夫」という安心感を得たいためだ。それだけのために高い授業料を払っている。僕たちは、ただ座っているだけ。さっきからもう思考は停止している。授業が始まり、「今日こそはちゃんとしよう」と思って先生の話に聞き入るんだけど、ものの数分もしないうちに頭に一切入ってこなくなる。先生の言っていることが理解できない。頭がついていかない。先生の言葉が僕の上をうわっ滑りしていく。そうなるともうダメだった。脳みそのほうが遮断してしまう。頭に、粘土が詰められたみたいだ。そこへ全く別のことが浮かぶ。先生が何を言っても、頭の中では「金子家の醤油ラーメン、やみつきつきー」というCMソングが繰り返される。多分脳がストライキを起こしているんだ。周りから見たら、ただぼーっとしているようにしか見えないだろう。もう頭が飽和状態なのだ。そんなレベルの子が集まるクラスだった。受験用の勉強が、一切理解できない、興味が持てない。そんな授業を何時間も聴いているのは、かなりの苦痛だった。ただ座っているだけでも本当に辛い。苦行だ。
だけどもう降りられないのだ。気がつけば僕は、途中下車できない中学受験という列車に乗せられていた。受験したいとは一度も言ったことがなかったが、するのが当然だという家庭環境だった。
僕には、中学二年のお姉ちゃんと高校一年のお兄ちゃんがいる。お姉ちゃんは私立女子大の付属に小学校から通っていて、おそらくそのまま大学まで進むだろう。お兄ちゃんも大学まである私立の小学校に行っていたが、中学受験をして、御三家と呼ばれる難関男子校に入った。通っていた小学校も十分に名門だったのだが、さらに上を目指したのだ。しかもそれが必死に猛勉強して、という感じではなく、余裕で、さらりと当然のように受かった。つまりものすごく優秀なのだ。
実は僕もお兄ちゃんが通っていた小学校を受験したが、不合格だった。お受験のための幼児教室にも通っていたし、上にきょうだいが通っていれば、きょうだい枠と言って、ほかの子よりかなり有利だと言われていたにもかかわらず僕はダメだった。クマ歩きだってちゃんとやったし、お話もしっかり聞いていた。面接だって、質問にはきちんと答えられたのに。
お母さんは「上にお兄ちゃんがいるのに、まさか不合格なんて。信ちゃんは一体何をやらかしたのよ? よほどのことをしなきゃ落ちるはずないのに。ああ、もう信じられない、どうして、どうして?」と繰り返し言ったが、僕だってわからない。ちゃんとやったつもりだった。でも人から見るとできていなかったのかもしれない。
そして「まさか自分の子が、公立の学校に行くとは思っていなかった」と言って嘆いた。だからどうしても中学受験でリベンジ、巻き返しをしなくちゃダメなんだと言う。そうでないと許さない、とまで言われた。
許さない、って何を?
とにかく僕は、中学受験をしなくちゃならないのだ。否応なしに。それだけは変わらない事実だった。模試のたびにたたき出される絶望的な偏差値を前に、僕はお母さんを失望させ続けたけれど、やるしかないのだ。