コメント
 
 
 
環境教育の副読本は (sa)
2007-12-24 23:20:11
 性教育の副読本を作った方は、行政職から教育委員会に行っていたIMさんではなかったでしょうか。

 その経験を生かして、環境教育の副読本が小学校、中学校用に作成が行われたときいています。私はIMさんの部下だったので、環境行政の職員としいて、教職の方と一緒に編集に関わりました。

 目立った仕事はどうもあとあと嫌われているんでしょうか。この副読本も使われているのか心配です。時代は10年を超えたので、更新・改訂も必要だと思いますが、どうなっているんでしょうか。
 
 
 
お蔵入りらしいです (いけぶち)
2007-12-25 00:19:59
副読本についてですが、私もまだ以前と同様に使われていると思っていた一人です。

ところが、現場の先生の話でも議会の答弁の中でも副読本は今までは児童に配布(配本)して、児童は家に持ち帰っていたけれど、今は学校内に保管していて、必要に応じて(性教育が必要になったときに)性教育を行おうとする児童・生徒の保護者の了解の下、副読本を使っているとのことでした。

保護者の了解の下といっても、保護者の考え方もさまざまでしょうし、性教育(教育という言葉がふさわしいかどうかわかりませんが)を必要としている(必要だと思われる)児童・生徒の親が、その必要性を理解し、副読本を使うことを了解する割合がどれほどあるかと考えた場合、結局のところ、副読本が使われる率は小さいのではないかと思っています。

でも、本当にそれでいいのでしょうか?

高度情報社会の今、性に関する情報も種々雑多、大人ですら間違った情報を信じていることもあるでしょう。すべて家庭で教えたり、話し合ったりできているのでしょうか?

もちろん、副読本がなくてもきちんと学校で教えることができているというのであれば、話はまた別ですが。
 
 
 
Unknown (うっちゃん)
2008-01-14 19:02:10
私も池淵さんのご意見に基本的に賛成です。
確かに行き過ぎた記述はあったとしても、だから性教育は必要ないかと言えば、そうではないでしょう。
副読本を批判する人々は、じゃあ、それはやらずに、野放しになっている風俗雑誌はどうするんでしょう。
木を見て森を見ず。断章取義も甚だしいと私は思っています。
そもそも、あれを取り上げた人は、今の日本の性風俗の氾濫には目をつむり、その箇所だけを取り上げて批判しているに過ぎません。
そのうち、真っ正面から彼らとは対峙すべきだと思っています。
それは、再生会議についても同様です。
 
 
 
権威に盲従しないこと (いけぶち)
2008-01-14 20:53:15
コメントありがとうございます。

今日(1月14日)の成人祭での教育委員長さんの挨拶の中に次のような言葉がありました。ここで言う「疑う」という言葉は、たとえば人を疑うということではなく、物事の表面だけを見て信じるのではなく、裏面や側面も見るあるいは想像してみるということだと思います。

以下、教育委員長の言葉から抜粋しました。

 通説を鵜呑みにしないこと、権威に盲従しないこと、それが『若さ』の特権です。
 『疑う』ことをやめたとき、人は『老い』ます。
 
 
 
Unknown (うっちゃん)
2008-01-14 23:37:31
ここだけの話。
吹田の成人祭は最近ほんとにおだやかになってますね。
みんないい子たちです。

そうですね、疑うというのは、人を疑うということではないんです。
疑うというのは、「なぜ」を問うことなんです。
「リンゴが木から落ちる」という当たり前の事実に、「なぜ」を問うて初めて引力の法則が発見されたのです。

ありがとうございました。

 
 
 
「なぜ?」が大事ですよね (いけぶち)
2008-01-16 00:39:08
やり取りが長くなっていますが、「疑う」というと、最近、偽装事件が続いたので、悪い意味に捉える人もいるようですが、うっちゃんが言われているように「なぜ」を問うことなんですよね。

人の言うことや本に書かれていることを鵜呑みにしていると、一見楽かもしれませんが、自分が無くなる気がします。

もちろん、私も信じやすいほうなので、「へぇ~そうなんや」ってすぐ思ってしまいます。

自分の中にストンと落ちるときはそれでも良いですけれど、「それってほんま?」「なんでそうなるの?」って思うことから、いろんな発見が生まれるんですね。

ほんま、いいお話、ありがとうございました。

 
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