徳丸無明のブログ

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勤労は美徳であるという観念について――無為による相対化を

2023-12-02 23:26:07 | 雑文
速水融の『歴史人口学で見た日本 増補版』(文春新書)を読んだ。
速水は日本の歴史人口学の第一人者で、最近では、新型コロナウイルスが流行する前に上梓した『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ――人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店)が、コロナを理解する手掛かりになるとして注目を集めたことでも知られている。本書は、「宗門改帳」という、江戸時代にキリシタンの禁圧を目的として作成されていた人口調査の記録をもとに、昔の日本の家族構成はどのようなものであったか、平均寿命や平均初婚年齢、平均的な子供の数はどうであったか、また、それらの数字の時代ごとの推移や地域差、そして、それらデータから浮かび上がってくるかつての日本社会の描写など、「人口」という観点から日本の歴史をとらえた一冊である。
速水はこの中の第四章「虫眼鏡で見た近世――ミクロ史料からのアプローチ」で、1600年から1620年の頃から徐々に変化が始まり、1670年に勢いが一番盛んだった「人口爆発」に触れ、それがどのような時代の条件を背景としていたか、どのような社会の変化や、人々の意識の形成をもたらしたかを説明している。少し長くなるが引用する。


では、そのころ何があったのかというと、とりもなおさず江戸時代が始まったのである。それが何を意味するかといえば、江戸時代以前というのは戦国時代で、兵農分離がなく、武士は農村に住んで、いざというときに一族郎党を引き連れて戦争に行った。しかし、江戸時代というのはそうではなくて、兵農分離が実施され、都市=城下町ができる。城下町というのは、その内部ではものをつくらないから、農村から城下町向けの生産が起こる。(中略)
都市で需要がつくられ、それに対応して農村がその都市に住む人のために市場向けの生産を始める。伝統的な農業というのは、そういう市場向けの生産はいっさい考えず、自給(自分で食うため)と年貢のために生産をしていた。自給と年貢は強制であり、働かなかったら飢え死にするか罰せられる。しかし、こんどの市場向け生産というのは、働けばカネになって戻ってくるわけで、そこで一挙に状況が変わった。
そうすると、どうすれば能率がいい生産ができるか、あの方法よりこの方法のほうが能率がいいという競争が起こり、結局、日本では農業生産形態のなかで小規模の家族経営がいちばんいいということになった。それはなぜかというと地形の問題がある。水田は水平でなければいけない。水平でなかったら水が流れ出してしまい、農業にならないから、真っ平にしなければいけないのである。そうすると、広い面積を真っ平にするのは難しいので、どうしても一つの単位が狭くなり、狭い面積のところを耕作するようになる。ヨーロッパやアメリカに行くと、畑というのは勾配があろうがなかろうが、ずっと長く畝が続いている。しかし水田耕作というのはそうはいかない。だから単位は小さい。
しかも、労働力が家族であるならば、朝から晩まで働く。働いて得たカネが家族に返ってくるからである。そういう条件の下では人間は一生懸命働く。(中略)農業は広い場所で作業が行われるから、遠くから見てサボっているのか働いているのかわからない。だからこそ社会主義では農業は失敗してしまう。農業は計画生産がいちばん難しいということなのだ。農業は自然依存度が高く、広い場所で生産が行われる上、人間はなるべく働くまいとする傾向があるから、極端にいえば一人の労働者に一人の監督がついて、サボった者は笞打たなければ働かない。しかし、労働が家族ということになると状況は変わるのである。
(中略)
ヨーロッパ型の農業発展は、人口に対して家畜の数が増えていく。そこで、いちばん初めに土地を掘り起こす犂は、一頭が曳いていたものが増え十二頭曳きまでいく。(中略)
しかし日本では、とうとう一頭曳きのものしかできなかった。しかも、日本は家畜を増やさず、だんだん農業に家畜を使わなくなっていく。(中略)
家畜数が減少したということは、それまで家畜のやっていた仕事を人間がやるようになったことを意味する。当時の馬は小さいから、馬一頭でも一馬力は出なかっただろうが、とにかく、馬を耕作に使う場合には、馬が犂を曳いて土地を掘り起こしていき、人間は倒れないように犂を支える。ところがそのようなかたちはなくなり、人間が犂いていくやりかた、夫が引っ張り、妻が後ろで支える方法に変わっていく。(中略)すなわち、家畜がいなくなってその仕事を人間がやる、畜力から人力へというエネルギーの代替が起こるわけである。
この変化は、ヨーロッパ型の農業発展とはまったく逆である。ヨーロッパは家畜をどんどん入れて、多大の外部エネルギーを導入する。これが工業で実現したのが産業革命である。日本はエネルギー源はマンパワーによるのであり、外部エネルギーではない。
(中略)
それではこの時代に農民の生活水準は落ちたのかというと、落ちていない。落ちていないどころかむしろ上がっているのである。たとえば、平均寿命が延びたり、旅行に出る者が多くなるなど、衣食住すべての面について生活水準が上がっている。(中略)
家畜は別名キャピタル、つまり資本である。経済学では生産要素としてふつう、資本と労働を考える。資本部分は大幅に増えて労働は節約する、つまり資本集約・労働節約というのが近代の産業革命、あるいは農業革命である。けれども日本の場合はそうはいかなくて、労働集約・資本節約、つまり資本が減り投下労働量は増えるという方向で生産量が増大することになる。(中略)
問題は、それによって農業に携わる人々の労働時間や労働の強度が大きくなっていくことである。いままで一日六時間ですんでいたものが、八時間、十時間働かなければならないとか、いままでは家族全員は働かなくてよかったのが、こんどは全員が働かなければならないというようになってくる。
そうなった場合に、農民のそういう状況に対する対応はどうであったのかというと、これは日本独特だが、日本人はそこに労働は美徳であるという道徳を持ち込んでしまった。もちろんヨーロッパでも、いわゆるプロテスタンティズムの倫理において、勤労によって得た利益は認められるという考え方が出てくるけれども、日本の場合は宗教ではなくて、実際の生活のなかで勤労は美徳であるという考え方ができ上がる。江戸時代にたくさんの農書が出されたが、そこには必ず、一生懸命働くことはいいことだと書かれている。
そうやって農民は働くようになったのだろうと私は思うが、もし一生懸命働いても、その成果が農民の生活水準の向上にはね返ってこないシステム、たとえば年貢で取り上げられてしまうとか、地主が取ってしまうようであれば、農民はけっして働かなかったであろう。ところが日本では、一生懸命働いて生産量が上がった場合、上がった分をそのまま年貢として取られたり、小作料として取られるというシステムにはなっていなかった。いくばくかは働いている農民のところへ還元された。それによって生活水準が上がるわけである。(中略)
私はこれを勤勉革命(industrious revolution)と呼んだ。つまりヨーロッパ型の発展は産業革命(industrial revolution)で、資本部分が大きくなって、労働資本比率において資本分が増えるかたちの変化。日本は労働部分が相対的に増える変化で、これを勤勉革命と呼んだわけである。(中略)この勤勉は、働かなくては食えないという「非自発的」な性格のものではなく、よりよき生活を、という動機をもった「自発的」な性格のものである。
私はこのことが、よくいわれる日本人は勤勉であるということにつながってくると考える。


この「勤勉革命」という造語によって速水が描出した江戸時代の労働観は、現代日本のそれとほとんど同じである。つまり、江戸時代に確立された日本人の労働に対する考え方は、現在に至るまでほぼ変容を被ることなく連綿と受け継がれてきたわけだ。
いかにも日本人らしい「真面目にコツコツ」という美学が、このような経緯によって形成されてきたということ、それ自体はなるほどというか、必然と偶然が入り混じった歴史の流れを感じるし、史実の正確な復元になっているのだろうと思う。しかしなんだか、モヤモヤしたものが残る。
速水は、一生懸命働けば働いただけ見返りがあり、生活水準が向上したから勤勉になった、と書いている。それは大枠においてはその通りなのだと思う。だが、いつの時代も、どこの地域でも、どの世帯でもそうだったのだろうか。
一生懸命働けば、必ず見返りが発生したのだろうか。いくら一生懸命働いても、見返りが得られない場合もあったのではないだろうか。
近代以前、人類はたびたび飢饉に見舞われてきた(正確には近代以降にも飢饉はあったのだが、ここでは議論をわかりやすくするため、あえて「定住農耕社会が成立してから近代を迎えるまで」と「近代以降」の対比で語ることにする。前者が「たびたび飢饉が起こる時代」で、後者が「飢饉がほぼない時代」という区分である)。品種改良した農作物や化学肥料や農薬がなかった時代、食品を長期保存する技術もほとんど確立されていなかった時代、旱魃などの悪天候や虫害の発生は、即食料不足に直結する危機的事態であった。今年が豊作であったとしても、来年はどうなるかわからない。そんな飢饉と隣り合わせなのが、(定住農耕が一般化して以降の)人類の常態だった。
そのような、食料の確保・供給が不安的な時代に、「勤勉の見返り」がつねに望めたはずがない。朝から晩まで必死に働いても、旱魃によって収穫がゼロになる、ということだって普通にあったはずなのだ。
速水は、この時代には「平均寿命が延びたり、旅行に出る者が多くなるなど、衣食住すべての面について生活水準が上がっている」とも述べている。しかし、それはあくまで平均値。飢饉が長引いて平均寿命が下がったりしたこともあれば、資源が乏しくて衣服がほとんど調達できない地域もあったり、旅行に行くなど夢のまた夢だった貧農だっていたはずなのだ。
だから、一生懸命働くことはいいことだという日本人の道徳は、つねに見返りを得られたことからくる功利的なものばかりではなく、一生懸命働かないと最低限の食い扶持も確保することができないかもしれないという切迫した事情、あるいは強迫観念のようなものが根幹にあったのではないだろうか。
仮に豊作の年があって、食生活が豊かになったとしても、それは一時的なものだったはずなのだ。長期保存できる食料は穀物や干物くらいだし、それだって虫に食われてしまうこともある。食生活が豊かになるのは、せいぜい豊作のあと1年間だけ。その先はどうなるかわからない。
そんな「食料の確保が不安定な時代」の労働の見返りなんて、たかが知れているのではないか。現代のように労働の成果を金銭に換え、それを貯蓄できるのであれば、預金通帳の額を増やすことによって、将来の安定した生活を見込むことができる。貯金額の増加こそが勤労の成果であり、その数字が大きければ大きいほど見返りが得られたことになる。
しかし、今ほど市場経済・金融経済が確立されていなかった時代、現金よりも現物給付で暮らしを営んでいた時代、勤労による見返りは、有効期限が1年程度の、ごく短いものであった。そんな時代に、「見返り」がそれほど強いインセンティブになるだろうか。見返りよりも、むしろ「必死に働かなければ飢え死にするかもしれない」という恐怖心がその動力となっていたのではないだろうか。
つまり、「働けば働くほど見返りが増え、生活水準が向上する」ような場合もあるにはあっただろうが、いつの時代も、どこの地域でも、どの世帯でもそうだったわけではなく、コツコツ真面目に働いた成果が、旱魃や台風などの災害によって水泡に帰してしまうような場合もあったはずなのだ。だから、一生懸命働くことはいいことだという道徳は、勤勉であれば必ず自分の利益の増大に直結するという功利主義的な考えに基づいてもいたが、そればかりではなく、「そういうふうにでも考えなければ日々の辛い労働に耐えられない」という、過酷な現実から目を背けるため、暗示をかけることを目的とした、言わば現実逃避のための道徳だったという一面もあるのではないだろうか。
そしてそれは、過ぎ去った過去の話ではない。今もなお、「一生懸命働くことはいいことだ」と思わなければ乗り越えられないような、辛い労働に日々耐えている人たちがいるのだ。だからこそ日本人の労働観は江戸時代から現在まで変化しなかったのかもしれない。

こんな話をしているのは、僕が怠け者だからでもある。日本人は、とにかく仕事が大好きで、仕事こそ生き甲斐という人が多い。生き甲斐とまではいかなくても、仕事がないと何をしていいかわからなくなる、という人だって数多くいる。
僕としては信じられない感覚なのだが、それが多数派の意見なのである。だが、それで世の中が滞りなく回っていけるなら何も問題はない。怠け者がとやかく言う筋合いのことではない。
しかし、勤労は美徳であるという道徳のせいで覆い隠されている理不尽があるのではないか。また、これから先はどうなのか。勤労は美徳だというのが主流の考えだと、将来何かと不都合になってきはしまいか。
まずは第一の点について。先に述べたように、頑張ったぶんだけ見返りが望めるからではなく、日々の辛い労働をなんとか乗り切るために「一生懸命働くことはいいことだ」という道徳を信じ込んでいる人だっているはずだ。マルクスが「宗教は人民のアヘンである」と言ったように、「労働に耐えるためのアヘン」として、勤労の美徳という観念がある。そういう一面があるはずなのだ。
なら、「一生懸命働くことはいいことだ」という道徳は、労働の現場における理不尽から目を逸らさせたり、それが存在していないかのように振る舞わせてしまう効果だってあることになる。過労死スレスレの長時間労働。従業員を薄給でこき使うブラック企業。若者の夢ややりたいことにつけ込んだ「やりがい搾取」・・・。労働基準監督署が対応すべきこれら諸問題は、勤労の美徳によって覆い隠されかねないものだ。
労働の問題を労働の問題として正しく直視するためには、「一生懸命働くことはいいことだ」という道徳は邪魔だったりする。解決すべき問題があるのにそれを直視できなかったり、そもそも問題を立てることすらできなくなってしまいかねない。
一生懸命働くことはいいこと。だから文句を言わず頑張りましょう。そんなふうにして、労働現場の問題は覆い隠される。美徳によって苦痛は肯定され、頑張りはお金に換算できない価値として評価されるのだ。その評価は、本人にとっては自己満足という錯覚でしかないのだが。そして、その錯覚で苦痛を誤魔化し続けているうちに過労死してしまうことも少なくないし、そのうえ雇用者側はお金の代わりに自己満足という飴を与えることで不当な利益を得続けることになるのだが、勤労を美徳とする人たちは、その現実からつねに目を逸らしている。
今こうしているうちにも過労死へと追いやられている人たちがいるし、死に至らないまでも、心を病んで長期療養を余儀なくされる人だっている。そのダメージがあまりに大きいと、一生仕事復帰できなくなってしまうかもしれない。これら諸問題は、勤労の美徳を旨としていると、直視するのが難しい。
男などはよく、「寝てない自慢」をしがちだ。「長時間働いているほうが偉い」(=睡眠時間を削っているほうが偉い)という価値観がはびこっているからだ。世の中には、「1日3時間睡眠を30年続けている」ような人もいる。しかしそれは特殊例。一般的には、睡眠時間が短いほど寿命が短く、病気にもなりやすい。徹夜しているほうがカッコイイという、馬鹿げた美学がはびこっているから過労死も起こるし、心や体を病む人も増えるのだ。「寝てないほうがカッコイイ」などという美学は馬鹿げている。しっかり睡眠を取ったことを自慢する世の中になるべきだ。

それから第二の点。これから先も、勤労は美徳だという道徳は、主流の考えであり続けるのだろうか。仮にそうだとして、何か新たな弊害が生まれてこないだろうか。
たとえば、今後AIが人間の仕事を代行するようになる、という未来予想。これが事実だとすれば、これからは数多くの人が働かずに暮らしていけるようになる。これまでの歴史を振り返ると、技術革新などのイノベーションが起きた場合、新技術によって既存の仕事(職種)が失われるものの、社会が変容することでこれまでにはなかった新しい仕事(職種)が創出され、一時的に多くの失業者が出はするが、最終的には新しい雇用に吸収される、というのがお定まりのパターンであった。ならば、近々訪れるであろう人間とAIの置き換わり、いわゆるシンギュラリティもまた、新たな雇用(職種)の創出によって、落ち着くところに落ち着き、人々はそれを新しいライフスタイルとして受け入れるようになるのかもしれない。
しかし、必ずしも歴史は繰り返すとは断定できない。今回はこれまでとは違う推移を辿るかもしれない。もし、新たな雇用が創出されなかったらどうだろう。AIが人間の仕事を代行していく一方で、人間の仕事は減り続けるばかりになったらどうだろう。
もしそうなったら、「一生懸命働くことはいいことだ」という道徳が主流の考えだと、精神的に辛くなるのではないだろうか。働くことばかりがそんなに価値のあることではない、ほかにもいろんな価値があり、それらは相対的なものだと考えるべきではないだろうか。そのように考えを改めないと、のちのち辛くなるのではないだろうか。
AIが人間の代わりに働くようになるとして、それはただ単に人間が失業することを意味するわけではない。恐らくはベーシックインカムの導入によって最低限の生活を保障され、裕福とまではいかなくても、貧しさは感じない程度の暮らしを送っていけるようになるはずだ。
ベーシックインカム。全国民に毎月一定額の現金を給付する制度。すべての国民を経済的に補填し、最低限の生活保障を指向するものである(現物給付という案もある)。
このベーシックインカム、よく「財源はどうするんだ」と批判されるが、その調達はそれほど難しいことではなく、現状でも国家予算の振り分けを少し変えることで確保できるのだという。つまり、ベーシックインカムが実現できるかどうかは、国家予算の多寡の問題ではなく、その給付先の土壌の問題なのだ。今の日本社会は、勤労の美徳が支配的だからベーシックインカムが受け入れられない。働かないで飯を食うとは何事だという考えが一般的だから受け入れられないのである。なら、価値観の転換を図ればいい。
また、AIが仕事をするようになれば、AIが稼いだお金に「AI税」という税金をかけ、それをベーシックインカムに回すようにしてもいいはずだ。AIはお金を使わないから、税率は高めにしても問題ないだろう。
そのような、「働かなくても必要最低限の生活費を保証される社会」が実現すれば、勤労の美徳は不要になるし、むしろ人間を苦しめかねない。仕事をAIに奪われた自分はなんとみじめなのだと。人としての尊厳をAIに奪われたに等しいと。そのような苦悩をかかえながら生きていかなくてはならなくなるかもしれない。
だからこそ、勤労は美徳であるという価値観は、相対化される必要があるのだ。働くことばかりが価値のあることではない。仕事以外の、様々な活動にだって、仕事と同等の価値を見出すことができる。・・・そのような相対化が必要になってくるはずだ。
AIに仕事を「奪われる」のではない。仕事を「代行してもらう」のだ。仕事を肩代わりしてもらうことで、自分はほかの、何か違う価値のある営みに注力する。あるいは何もしない「無為」を楽しむ。そういうふうに考えるべきなのだ。
さもないと、不可逆的に進行するであろうAIの発展と導入を、肯定的に受け入れることができない。この流れが不可避である以上、我々は肯定的に受け入れなければならない。それができないなら、精神的に辛くなる。辛さを回避するために、働くことの価値・勤労の美徳という観念を問い直さねばならないのだ。

これはニートや引きこもりの問題とも絡んでくる。外国人から、日本人は勤勉であるとか、接客の態度が素晴らしいなどの称賛をよく受ける。これは日本人の誇るべき美点としてよく語られている。だが、本当にそれは肯定的にとらえるべき長所なのだろうか。
例えば、新幹線の清掃員。彼らのスピーディーな仕事ぶりは、「7分間の奇跡」としてよく知られている。清掃員ひとりにつき1両を担当し、約100席の掃除をこなす。7分以上かかることはまずないという。この早さのお陰で新幹線は発着時間がほとんどズレることのない、正確なダイヤ運行を実現できている。その手早さは外国人の称賛の的となっており、日本側も誇りのひとつと自負している。
だが僕は、なぜあれほど早く作業せねばならないのだろうかと思う。彼らのことを誇らしく思うよりも、気の毒に思ってしまうのだ。なぜもっとゆっくり清掃作業をさせてあげないのだろうか。少しスピードを落としたところで、発車時間はせいぜい2,3分遅くなるだけだ。その程度の時間のゆとりもないのだろうか。新幹線というのは、そんなに慌ただしく運行せねばならないものなのだろうか。
「手早く作業する」のは、けっこう快感だったりする。テキパキ仕事をこなしたり、作業時間を短縮したりするのは、労働の喜びだったりする。それは経験上理解できる。だから、清掃員の人たちが一概に可哀想であるとまでは言わない。ただ、手早く作業できる人も、そうではない人も務まるわけではなく、7分を超過してしまう人は排除されるような、労働条件の過酷さに疑問を呈しているのである。
ほかにも、接客業。日本人の礼儀正しさ、細やかな心配りは、接客の姿勢に端的に表れているとされる。これもまた、日本を訪れた外国人が称賛するところである。
この接客業の礼儀正しさ、気遣いの良さは、「こうじゃなければならない」という基準の、終わりなき増殖によってもたらされている。お辞儀の角度は何度でなくてはならない。何もしていない時には規定の姿勢で立ってなければならない。こう言われた場合はこう返さなければならない。髪型はこうでなくてはならない。服装はこうでなくてはならない・・・。
これら無数の「なければならない」によって、接客業の人々はがんじがらめにされている。その縛り、締め付けに耐えることで、世界に誇る、日本の接客態度は維持されている。だが僕は、そこまでの礼儀正しさ、そこまでの気配りは必要なのだろうかと思うのだ。
「覆面調査員」という仕事がある。一般客を装って来店し、従業員の接客態度や店内の衛生状態をチェックする、という仕事だ。チェック項目は多岐に渡り、よほど完璧な従業員でなければパーフェクトは取れない。この査察を踏まえて反省点を炙り出し、接客態度のさらなる向上を目指す。それが覆面調査の目的である。従業員の立ち居振る舞いや店内環境の改善のために有益な調査であると、大半の人には概ね好意的に見られている。でも僕はそう思わない。覆面調査員には、陰湿なものを感じてしまう。覆面調査というやり方が陰湿に思えてしかたないのだ。
この覆面調査の特徴、加点式ではなく減点式である。100点満点中70点取れればいいという加点式ではなく、100点未満は100点を目指す過程にあるとされる減点式。獲得した点数(+)に注目するのが加点式で、獲得できなかった点数(-)に注目するのが減点式である。この減点式が、日本人の接客業に求められる基本姿勢なのである。接客業の人々は、減点式という基本条件のもとで働かねばならないのだ。
70点に安住してはならず、つねに100点を目指さねばならない。しかもその100点の基準は、「もっとこうしたらいいんじゃないか」という意見によって絶えず修正され、日々精度を増し、達成が困難になっていく100点である。日本の接客業の人々は、このような減点式の査定の中にいる。
この厳しい減点式に研ぎ澄まされることで、世界から称賛される珠玉のサービス精神が培われているのだが、当然これに付いていけなくなる人もいる。70点くらいならなんとか出せるけど、100点目指して終わりなき努力を重ねなければならないのであれば、付いていけない。そんな人たちだって大勢いるはずなのだ。よって減点式は、そのやり方に付いていけない人々を排除する。排除することで成立しているのが減点式なのだ。

また、この数限りない「こうじゃなければならない」は、従業員が自らを律する姿勢のみならず、客の側からの、従業員を査定する視線にも侵食する。その挙げ句に生み出されているのが「客は神」などという暴論と、カスタマーハラスメントの横行である。カスタマーハラスメントを繰り返す人たちの多くは、恐らく、相手が逆らえない立場であることにつけこんで嫌がらせをしている、と自覚してはいない。相手のためを思い、その従業員が、その会社が少しでも良きものになるように働きかけている、というふうに思い込んでいるはずである。もちろんそれは錯覚でしかないのだが、無数の「こうじゃなければならない」というチェック項目で従業員を評価する、減点式の査定方法が常識としてある社会では、そう思えてしまうのである。今や接客業の人々は、「食べログ」などの評価サイトや、SNSの声によって、つねに脅かされている。「悪評」が店にとって命取りとなりかねないので、接客に神経質なまで気を遣わねばならなくなっているのだ。
僕は購入した商品やネットサービスについて、たまに問い合わせをすることがあるのだが、今や電話での対応を行っている企業は稀で、ほとんどがメール対応である。メールだと、応対者の方がこちらの意図を正確にくみ取れないこともあり、質問と微妙にズレた返答が返ってきたりして、ヤキモキする。電話で話せれば数分で済むのに、メールだと数日かけて何往復もやり取りをしなければならない。カスタマーハラスメントが横行しているから、対策として電話口をなくさざるを得なくなっているのだ。カスハラ被害は、スムーズな問い合わせの阻害にまで及んでいる。
5月11日に、「福岡県警察本部が、カスタマーハラスメントに該当するクレームへの対応指針を定めた」というローカルニュースが流れていた。去年の12月に警察官約1万人を対象にアンケート調査を行った結果、市民からの苦情対応に苦慮したことがあるという警察官が約8割にのぼり、そのうち約4割は心身に影響が出たとのこと。本来県民のために活動すべき時間が削られてしまっていることに対処したもので、電話なら30分以内、警察署での対応なら1時間以内など、一定の判断基準を設け、それらを超えた場合は対応を打ち切ったり、署からの退去を警告したりできるとする対応要領をまとめたという。警察本部としてカスハラに該当する行為に組織的対応を定めるのは前例がないそうだが、恐らくはほかの都道府県でも同様の問題に悩まされているはずで、これが先行事例として一定の成功を収めれば、ほかの警察本部も続くはずである。
警察はサービス業ではない。にも関わらず、カスハラに類する行為に悩まされているのだ。日本社会は今、ここまで来ている。
以前「アメトーーク!」の「パチンコバイト芸人」の回で、わらふぢなるおのふぢわらが、「昔は横柄な客がいたら、従業員数人で屋上に連れて行ってボコボコにしていたらしい」という話をしていた。率直に言って、いい話だと思った。ふぢわらが働いていた当時で50年ほど前の話だったそうだが、そういう時代もあったのだ。相手が客だからというだけで何をされてもペコペコするのではなく、店側が一定の規律を持ち、たとえ客であっても一線を越えたらそれに見合った制裁をくらわす。そのような規範が、暗黙のルールとしてパチンコ業界、もしくは接客業界に伏流していたのだ。それが今やどうだろう。心身に不調をきたしてもなお、頭を下げねばならなくなっている。
念のため断っておくが、店側が自警団的に暴力を振るうことを全面的に肯定しているのではない。無制限の暴力を肯定してしまえば、度を越えたリンチが起きかねない。店側が客に暴力を振るうようになればいいという話ではなく、客側が一方的な力を持つことを問題視しているのである。実際には客に暴力を振るう必要はない。いざとなればそのような手段を行使することも可能だという経営体制のほうが望ましいということだ。客が増長して王様のごとく振る舞うのではなく、店側に一定の敬意を払って接する。客と店が一定の緊張感を持って関わる。カスタマーハラスメントを横行させないためにはそのような緊張感が必要であり、その緊張感は、いざとなれば客をボコボコにすることもできるのだという暴力を背後に控えさせることで成立するのだ。

海外に目を向ければ、極端に無愛想で、やる気が微塵も感じられない従業員の人たちがいくらでもいる。客が来店しても寝そべったまま。ゆったりとした動きでの対応。笑顔もなく、愛想ゼロで、感謝の言葉もなし。
そんな人々を見ていると、「これがこの国のダメなところだ」とか、「日本はこうじゃないから経済発展できたんだ」などと思えてくるかもしれない。それは一面では正しい。でも僕は、その見方が唯一の正解だとは思わない。なぜやる気のない接客ではダメなのか。なぜ日本ほどの接客態度が理想とされねばならないのか。僕はやる気のない接客でも別にいいと思っている。
仮に、海外のやる気のない従業員を日本人が指導・監督するのであれば、間違いなくマニュアルを作るだろう。日本人が大好きなマニュアル。ああしなければならない、こうしなければならない。ありとあらゆる「こうじゃなければならない」によって、やる気のない従業員を縛りつけにかかる。それによって規律を植え付け、一定の型にはまった画一的な労働者を作り出そうとする。
そのような、マニュアルでがんじがらめにするやり方にも、うまく馴染める人はいいだろう。でも、馴染めない人、付いていけない人だって少なからず出てくるはずである。付いていけない人は、職場から排除される。無能、もしくは社会不適合者、もしくは怠け者の烙印を捺されたうえで追放される。無数の項目からなるマニュアルで従業員を規格化するというのは、そういうことだ。
このマニュアル化が過剰になり、行き着くところまで行き着いてしまっているのが現代の日本なのではないだろうか。僕はニートや引きこもりというのは、やる気がないわけでも労働意欲が皆無なわけでもないと思っている。働きたい気持ちもあるにはあるのだが、過剰なマニュアル化に付いていけず、脱落してしまった人たちなのだと思っている。
当たり前のことだが、世の中にはいろんな人間がいる。愛想のない人、テキパキ動けない人、気が利かない人、集中力が続かない人。そして、どんな人でも――貯蓄や福祉などの財源がなければ――働いて糧を得ねばならない。やる気がない従業員が普通に働いている国は、マニュアルがほとんど存在していない国だ。それは、いろんな人間を包摂する社会だ。愛想のない人だろうと、テキパキ動けない人だろうと、気が利かない人だろうと、分け隔てなく労働市場に包み込む。マニュアルで人をはじかない社会だ。
日本は、その真逆なのである。日本人の接客の態度は素晴らしい、素早く効率的に仕事をこなすと称賛されているが、それは過剰なマニュアル化の結果としてある。そしてその影で、過剰なマニュアル化に付いていけなくなった、数多くのニートや引きこもりを生み出しているのだ。
日本社会が抱える問題のひとつ、ニートと引きこもりの増加。これは、過剰なマニュアル化の代償としてある。過剰なマニュアル化によって、テキパキ働けて細やかな気配りができる労働者を一定数作り出すことに成功しているのだが、その代わりに、過剰なマニュアルに付いていけない人をも生み出しているのである。
「こうじゃなければならない」が際限なく増殖していく社会とは、速度が上がり続けるマラソンのようなものだ。速度が上がれば上がるほど、脱落者が増えていく。その「速さ」(=無数の「こうじゃなければならない」に下支えされたサービスの良さ)に、人々は称賛を送るかもしれない。しかしその陰では、多くの脱落者(ニートと引きこもり)を生み出してしまっているのだ。これが日本の労働現場の光と影なのである。
これを社会問題と認識している人はほぼいないので、マラソンの速度(「こうじゃなければならない」の増殖)は今後も上がり続けるだろう。それによって、ますますその速さについていけない人を生み出してしまうだろう。脱落者(ニートと引きこもり)は増える一方になるだろう。
ニートや引きこもりは、ただ単に怠けているだけとしか見做されない。でも僕は、それは違うと思う。彼らも働く意欲はあるのだが、日本の労働環境が厳格すぎて耐えられないのだと思う。だとすれば、日本社会が労働現場に過剰なマニュアル化を持ち込むことを止めれば、ニートや引きこもりも労働現場に参入し始める、ということになる。
それはつまり、愛想のない人、テキパキ動けない人、気が利かない人、集中力が続かない人を受け入れるということだ。彼らを包摂する社会になるということ。不愛想な従業員、無気力な従業員が当たり前に存在する外国のように。恐らく、マニュアルが過剰であればあるほどニートや引きこもりの数が多いという法則は、どこの国にも当てはまるはずである。
だから僕は、過剰なマニュアルを止めるべきだと思っている。ニートや引きこもりは一般的に本人のやる気の問題、私的な問題だと考えられている。だが僕はそうではなく、社会の側の問題だと考えている。ニートや引きこもりである本人が変わるのではなく、社会が変わることによってしか解決しない問題だと考えている。議論をわかりやすくするために、あえてニートと引きこもりだけを引き合いに出しているが、体を壊してしまったり、心を病んでしまったりして働けなくなる人もいる。過労死や過労自殺に追いやられてしまう人も。僕の主張は、それらすべての「労働現場からはじき出されてしまった人たち」を対象としているものと理解していただきたい。

職場においては、マニュアルのみならず、マナーの問題もある。現在はマナー講師という職業もあり、彼らは新米社会人を相手として、「一人前の良識ある大人」を育成すべく、様々な場面における立ち居振る舞いを教示している。
このマナー講師、基本的な、誰でも常識として理解できるたぐいのマナーを教えるだけであれば問題はない、と思う。だが、彼らはそれだけに留まらない場合が多い。彼らは、「こんなマナーがあるなんて知らなかった」とか、「こういう時のマナーなんて気にしたことなかった」といった、ほとんど誰も知らないマナー、社会全体の常識として登録されていないマナーをも持ち出すのである。それはつまり、彼らが自ら作り出したマナーだということだ。自分たちでマナーを作り出し、「これを常識としましょう」と提示しているのである。
マナーとは、相手を不愉快にさせないための気遣いである。だからこそそれは、「普通はこうすべきだよね」という、社会全体の暗黙の了解で決まってくるものだ。特定の誰かではなく、社会全体が決めるもの。それがマナーである。にも関わらず、マナー講師は自分の判断でマナーを生み出している。なんの権限があってそんなことをしているのかはわからない。自分が社会全体を代表できると思い上がっているのだろうか。いずれにせよ、彼らは恣意的、かつ闇雲にマナーを生み出し、「こうじゃなければならない」の増殖に一役買っている。
彼らは、そうすることで社会全体の礼儀作法の向上に寄与していると自認しているのかもしれない。だが現実には、「今自分のマナーは大丈夫か」「この場面でのマナーは何か」と、四六時中マナーに神経質になり、気が休まることのない病的な社会人を生み出してしまっているのだ。「この場面ではこれをマナーにしましょう」「こういう時はこうするのをマナーだとしましょう」という提案によって、際限なく増殖していくマナー。「これがマナーだ」と言い出さなければ誰も気にしなかったようなことでも、一旦マナーとされてしまえば、不快に感じるようになる。本来気にもならなかったはずのものが、マナーを増殖させたことで気になるようになってしまうのだ。
なぜマナー講師はマナーを増殖させるのか。そうすれば、自分たちの仕事が増え、ずっと安泰になるという計算があるのかもしれない。マナーを増やすことで、「自分が知らないマナーがあるかもしれない」と人々を不安にさせ、自分たちへの依頼を喚起する。そのような目的があるのかもしれない。人々の不安につけこんで儲けようとしている、マッチポンプ的商法ということだ。
マナー講師の人たちは、自分の仕事に誇りを持っているのかもしれない。自分たちが社会を上品にしていると自負しているのかもしれない。でも僕は、そう思わない。マナー講師という職業は、大幅に制限すべきと思っている。必要最低限の作法を教えるだけで、過剰なマナーは教えてはいけない。また、自分でマナーを作り出してはいけない。そのような制限をかけるべきだと考えている。そうしないと、日本社会の「こうじゃなければならない」は、増え続けるばかりだ。「こうじゃなければならない」が増え続けるということは、それに比例してニートや引きこもりも増え続けるということであり、社会がどんどん息苦しくなっていくということにほかならない。
マナーなどわざわざ人から教わらなくても、常識の範囲内、自身の肌感覚に従って礼儀をわきまえておけば、それでだいたい事足りる。我々が学ぶべきはむしろマナーではなく、他人の些細な言動にいちいち目くじらを立てない鷹揚さだ。無数の「こうじゃなければならない」を張り巡らせることは、社会の礼儀を向上させることではない。社会を息苦しくさせて、窒息する人を大量に生み出し、精神的に追い詰めることにほかならない。

増殖する「こうじゃなければならない」は、身だしなみにも及ぶ。かつて日本の一般住宅には、ほとんど風呂がなかった。週に1,2度程度の銭湯通いが平均的な慣習で、毎日風呂に入っている人などほとんどいなかった。データをきちんと調べたわけではないのだが、概ね1960~70年代まではそんな具合だったはずだ。人々の衛生観念はそのようなもので、他人の汚れやニオイにほとんど無頓着であった。わずか50~60年前まではそんなものだったのである。
それが今やどうだろう。毎日風呂に入っていなければ「汚い」と断じられ、男性は毎朝の髭剃りを、女性は化粧を常識として求められる。テレビは朝から晩まで消臭・除菌グッズのCMを流し、「いい匂いを漂わせましょう。臭いと嫌われますよ」と脅迫してくる。
「加齢臭」という言葉が使われるようになったのはここ20年くらいのことだ。この言葉が共通言語として登録されたということは、何を意味しているか。日本社会が、他者のニオイに不寛容になってきた、ということである。
元々は誰も気にしていなかった、もしくは、多少気にしてはいても言挙げするほどではないと思われていたことに言及するようになった、ということだ。ことはニオイだけに留まらない。ニオイに対する不寛容さは、他者全体に対する不寛容さに繋がるからだ。
清潔でなければならない。汚れていてはならない。乱れていてはならない。臭ってはならない。菌がいてはならない。今やこれらの、身体に関する「こうじゃなければならない」は社会に張り巡らされ、社会人はそれを内面化している。内面化されることで身だしなみは相互監視の網目の中に置かれ、少しでも汚れや乱れがあれば周囲から「汚い」との指摘を受ける。
「汚れ」に神経質になるということは、他者との親しい関係を取り結ぶことが難しくなるということでもある。なので、社会のデオドラント化が進めば進むほど、人間関係は希薄になっていき、中間共同体は空洞化する。日本人の生涯未婚率が上昇し、少子化が加速しているのもむべなるかなである。
食料品や医療品の製造・管理など、清潔さが必須の職場ならともかく、なぜそうでない所でまでそのような身綺麗さが求められなければならないのか。相互監視による身だしなみチェックでは、減点対象となれば社会人失格の烙印を捺されてしまい、人事考課にも響きかねない。生身の存在である人間が、なんらかのニオイを放っているのは当たり前のことである。なぜ他人のニオイに神経質になるのか。身だしなみなど、最低限の衛生状態を保っていてくれればそれでいいはずだ。細かい査定のまなざしを人様に向けるべきではない。
聞くところによると、最近10代や20代の中には、あまり風呂に入らない人が増えているという。本当に増えていると言えるほど、まとまった数が存在するのか。データを見たわけではなく、噂レベルの話を聞いただけなので、断定的なことは言えない。だが、それが事実なら歓迎したい。恐らく彼らは、過剰な衛生指向の揺り戻しとしてある。ほぼ無自覚であろうが、極端なデオドラント化を馬鹿馬鹿しく感じており、そこから積極的に降りるために、衛生にあまり気を遣わない生活習慣を選び取っているのだろう。
自覚なきアンチテーゼ。ニオイや汚れに神経質な日本社会の目を醒ましてくれるのは彼らだろう。

加点式ではなく減点式で評価する思考法は、労働現場だけに留まるものではない。それは私的な領域、家庭の領域にも入り込んでいる。そして、いつの間にかその思考法に頭を乗っ取られ、人生そのものを減点式でしか判断できなくなっている。
日本人は幸福感が低い、とよく言われる。それは各種統計調査にも表れている。なぜ自分は幸せだと思えないのか。人生を減点式でとらえているからではないのか。70点以上なら良しとする加点式ではなく、100点以外は100点を目指す途上にあるとされる減点式で考えているからではないのか。なぜ減点式でしか考えられないのか。なぜ加点式に改めることができないのか。減点式で思考し続ける限り、日本人はあまり幸せを感じられない人生を送り続けることになるだろう。(「70点以上なら良しとするのを加点式」と書いたが、これはあくまで一例であって、「加点式であっても最低70点は取らなきゃならない」ということではない。業種によって、企業によって、求められる最低ラインは異なる。「60点でいい」という職場もあれば、「15点でオッケー」という所もあるだろう。要は、100点(=完璧)を目指さないというのが重要なのであって、「ウチはそういう基準もないし、採点なんかしない」という職場があるなら、それでもいいのである)
また、減点式の見方が人間関係に入り込んだらどうだろう。多様性を重視し、個性を尊重するのが加点式の思考であるならば、細かい差異を際立たせ、嘲笑の的にするのが減点式の思考である。つまり、減点式はいじめの思考でもあるのだ。減点式の思考を良しとする社会は、いじめを良しとする社会でもある、ということだ。減点式の思考は、いじめの母体でもあるのだ。僕が覆面調査員に感じた陰湿さは、恐らくいじめの陰湿さと共通しているのだろう。
労働というテーマから逸脱してしまうが、このことは、登校拒否児童の問題とも無縁ではない。登校拒否児の数は、引きこもりと同様に増加の一方のようだが、学校現場も大人社会の影響で、少なからず減点式の思考が流れ込んでいるはずなのだ。公教育の現場は、大人社会の反映としてある。減点式の強化によって引きこもりが増加するように、登校拒否も増加の一歩を辿っているのだ。
だから僕は、減点式を止めて加点式にすべきだ、と訴えたい。仕事のみならず、私生活や人間関係もより良くするためには、減点式ではなく、加点式でなければならないのだ。労働現場が過剰なマニュアル化を止めない限り、ニートも引きこもりも増え続けるばかりで、けっして減ることはないだろう。
ただ、ひとつ断っておくが、僕はニートと引きこもりをなくすべきだとは考えていない。ニートも引きこもりも、本人がそのままでいいと思っているのであれば、周りがとやかく言う筋合いはない。問題視しているのは、ニートや引きこもりにとって、労働現場の壁があまりに高すぎるのではないか、ということだ。働いたほうが幸せになれるという人のために、労働現場に難なく参入できるよう、壁をできるだけ低くすべきだと主張しているのである。
減点式と過剰なマニュアル化。このふたつが日本の労働現場を、いや、それだけでなく日本人の私生活をも締め付け、日本人から幸福の実感を奪い取っている大本なのだ。放っておけば、今でさえうんざりするほど存在する「こうじゃなければならない」は、今後も増殖を続けるだろう。この流れを逆転させねばならない。オッカムの剃刀よりも鋭利に研ぎ澄まされた刃物によって、闇雲に増やされた「こうじゃなければならない」を切り捨て、マニュアルを必要最小限にまで彫琢する。接客は最低限のことをしてもらえれば、あとはとやかく言わない。そういうふうに労働観を転換させねばならない。
最近では服務規程を緩和し、服装や髪形を自由化している職場も増えていると聞く。いい傾向だと思う。頭の固い年寄りなどは、未だにスーツや制服じゃなければ「だらしない」などと非難するが、そもそも規則があるからだらしないと思えてくるのであって、それがなければだらしないも何もないのである。

過剰な「こうじゃなければならない」の羅列ではなく、必要最低限やってくれればそれでいいという鷹揚さへ。
100点未満をすべて不正解とする減点式ではなく、及第点取っていればあとは気にしない加点式へ。
細かい差異に目くじらを立てて非難・嘲笑する相互監視ではなく、差異を個性として尊重する寛容社会へ。
髪型や服装を細かく規定して労働者の個を殺し画一化する、ロボット製造工場のような職場ではなく、髪型や服装を自由化し、規則の「緩さ」が「働きやすさ」をもたらすような職場へ。
スピードや心配りを向上させるその裏で、無数の脱落者を生み出す排除の社会ではなく、できる人もできない人も分け隔てなく受け入れる包摂の社会へ。

これらの転換を今、求めなければならない。それが叶わぬならば、マラソンの速度はなおも上がり続け、脱落者は増加の一途を辿ることになるだろう。


先に述べたように、僕は怠け者である。できることなら何もしないでひたすらボーッとしていたいと願っている。そんな僕には、仕事を至上の価値とする大多数の日本人の感覚は不可解なものでしかない。
また、僕は「働かざる者食うべからず」という言葉が大嫌いだ。この言葉を、「時は金なり」とともにこの世から葬り去りたいと思っている。
なぜ働かなければ食べてはいけないのか。労働というのは食い扶持を確保するために行うもののはずだ。だったら、食い扶持が確保できていれば働く必要はない。蓄えがあれば、働かなくても問題ないのである。なのに、仮に蓄えがあったとしても、働いていなければ一人前の大人とは認められないという支配的な空気がある。不労所得にも否定的だ。
人間の仕事も、効率的に行えるよう、だいぶ洗練されてきている。少ない労働量で、多くの成果を出せるようになってきているのだ。労働量とその利益は、必ずしも1対1ではない。
現在では、仕事の成果が見えにくくなっている。労働力の投下から給金という対価の給付までの間に、いくつもの段階が挟まっているからだ。狩猟採集や農耕を営んでいるならば、労働力の投下は成果に直結しているため、自身の働きがどれほどの成果をもたらしたかが明瞭にわかる。
だが現代ではそうはいかない。勤め人であれば、まず会社に労働力を提供し、それがいくつかの部署、もしくは他社を経て利益を上げる。純利益はいったん会社がすべて預かり、その中の一部が給料として支払われる。その途中でいくつか引き抜きが行われる。それは会社の維持費だったり、新たな事業開拓のための投資だったり、はたまた所得税などの各種税金だったり、国民年金保険料や生命保険料なんかだ。それは社会設計上しかたのないことではあるのだが、そのせいで正確な労働の成果がわかりにくくなっているのだ。労働量とその利益が1対1になっていないというのは、そういうことだ。
なので、搾取と呼ぶに値するような「中抜き」が行われている可能性もある。1日働けば1週間は遊んで暮らせるだけの稼ぎを出しているにもかかわらず、その大半はどこかの誰かに抜き取られている可能性が。そうして「生かさぬよう殺さぬよう」調整されながら、食べるためには休むことなく働き続けねばならないと信じ込まされている。
労働環境のブラックボックス化。不可視にされたいくつもの段階の中で、我々の利益はどこかに持ち去られている。
それは社会構造上やむを得ないことであるのかもしれない。しかしそれをもって、「働かざる者食うべからず」という道徳の裏付けとすべきではない。我々は、そう信じるように仕向けられているのだ。誰によって?社会の支配者層によってか?いや、恐らくは資本主義によって。
人類が原始的な狩猟採集を営んでいた時代、人々の1日当たりの労働時間は、平均2,3時間程度であったことはよく知られている。それだけで充分な食い扶持を確保できていたのだ。なにゆえ現代の我々は8時間かそれ以上の勤労を求められなければならないのか。
「働かざる者食うべからず」は、「一生懸命働くことはいいことだ」と同様に、直視すべき事実から目を逸らさせる作用のある言葉だ。我々は、「働いていない人は食べてはいけないんだな」と思い込まされている。その思い込みによって、見えているはずのものを見落とし、自らが被っているはずの理不尽を自覚できなくなっている。
ならば、錯覚を錯覚と認識することから始めなくてはならない。そこから見えてくるものがあるはずなのだ。そもそも、なんのために働いているのか。働かないということは、餓死に値するほどのことなのか。
日本では、小泉構造改革が推進した新自由主義が蔓延した2000年代に、餓死者が何人か出て話題となったことがある。彼らは職を失い、家族や親戚に助けてもらうことができず、生活保護も断られ、電気や水道を止められた自宅で孤独に飢え死にしていた。僕は当時、食べるためならいくらでも方法があったんじゃないか、と思った。飲食店やスーパーのゴミを漁ったり、わざと軽犯罪を犯して警察のご厄介になったりすれば食べるものにはありつけたのではないかと。あるいは、ご近所さんに片っ端から物乞いしてもいい。恥も外聞もなく行動すれば、なんとか食べていくことはできたはずだ。だが彼らは、そうしなかった。それは恐らく、「働かざる者食うべからず」という道徳を内面化していたからだ。自分は働いていないから、食べてはいけないのだ。他人様に迷惑をかけてまで食事にありついてはいけないのだ。そのように考えていたからこそ、何も行動を起こさずに、ただひたすら飢えを受け入れ、孤独に死んでいったのだ。ひょっとしたら、小泉純一郎が流行らせた「自己責任」という言葉も一役買っていたのかもしれない。
もし、「働かざる者食うべからず」という道徳がなかったらどうだろう。彼らは積極的に行動を起こし、ゴミを漁ったり、軽犯罪を犯したりなどして、なんとか食いつないでいたことだろう。「働かざる者食うべからず」という道徳が、彼らの行動を抑制したのだ。強い言い方をするなら、彼らは「働かざる者食うべからず」という道徳に殺されたのである。
「働かざる者食うべからず」という道徳が、日本社会に常識として登録されていなければ、彼らは飢え死にすることなどなかった。この事実をもってしてもなお、日本人は「働かざる者食うべからず」と言い続けるのだろうか。この道徳を、疑う余地のない真理として崇めたてるのだろうか。
動物は、腹が満たされている時には何もしない。空腹になればようやく動き出す。「働かざる者食うべからず」などと軽々しく口にする人は、動物を見習うがいい。食べるための労働とは、そういうことだ。

怠け者の僕にとってもうひとつ不可解なのが、「怠ける美徳」が存在しないということである。日本(のみならず、ひょっとしたら世界中ほとんどの国で)には、「勤労の美徳」があるばかりで、「怠ける美徳」がない。これは不思議なことだと思う。
額に汗して働く姿は美しい。身を粉にして仕事に打ち込む姿勢は尊い。これが勤労の美徳。誰にでも理解されやすく、受け入れやすい道徳だ。
対して、「何も生産せずダラけて過ごすのは誇らしい」とか、「ひたすら遊びに没頭する姿はまぶしい」などとは誰も言わない。仮に言ったとしても理解されず、受け入れられることもない。あるのは勤労の美徳だけなのだ。
いや、その理由はわかっている。「怠ける美徳」は、「勤労の美徳」とは共存できないと思われているからなのだ。怠ける美徳は、勤労の美徳を脅かす。勤労の美徳を否定し、毀損しかねない。勤労の美徳にとって、怠ける美徳は危険因子なのだ。だから勤労の美徳を旨とする人たちは、必死になって怠け者を批判する。ニートやホームレスや生活保護受給者をあしざまに罵る。彼らはそれを正しいことだと信じきっている。
でも、本当にそれでいいのだろうか。AIが仕事を代行するようになり、ベーシックインカムが導入され、大多数の人間が働かなくても暮らしていけるようになった時、勤労の美徳だけだと辛くならないだろうか。
一生懸命働くことだけしか価値として認められないなら、働かなくていい暮らしは無価値になってしまう。趣味に没頭したり、ひたすら遊んでていい生活を手に入れても、それがくだらないものと否定されてしまう。それはもったいないし、悲しいことだと思う。
だからこそ、来るべき近未来、AIが仕事をし、人間は遊んでていい時代を迎えるにあたって、怠ける美徳を新しい道徳として提唱していくべきではないだろうか。怠ける美徳によって、勤労の美徳を少しずつ相対化し、働くことばかりが価値じゃないのだという考えを広め、常識にしていく。そうすることで、「働かないのも悪くないな」と思えるような共通認識を形成し、来るべきシンギュラリティに備える。そうしないと、のちのちみんな辛くなると思うのだ。
「失われた30年」という言葉がある。最初は10年だった。バブル崩壊以降、日本経済は回復することなく停滞し続けたとして、その期間が失われた10年と呼ばれるようになったのだ。それがさらに10年経って失われた20年となり、現在に至って30年となっている。日本経済は30年間回復しなかった、というわけだ。
この言葉、経済情勢の正確な反映として日本社会に登録され、共通言語として広く用いられている。だが、それは正しいのだろうか。
「失われた」というからには、「得られて当然のものがあった」という前提がなければならない。バブル崩壊以降の日本は「失われた30年」だったという見方を共有している人たち、「失われた30年」を自明のものとしている人たちは、当然この前提も共有している。「得られて当然のものがあった」という前提。それは言い換えるならば、「経済はとどまることなく成長し続けなければならない」ということだ。
しかし、それは本当に正しいのだろうか。本当に経済は成長し続けなければならないのだろうか。
太平洋戦争後、戦争に敗れた日本は、空襲によって国土を焼き尽くされていた。当時の日本には、大幅な「経済成長の余地」があった。
だが、今はどうだろう。今もなお、かつてと同じくらいの経済成長の余地が残されているのだろうか。ある程度成長できるまで成長しきったから、もはやこれ以上の伸びしろは残されていないのではないだろうか。事実、日本経済はすでに成熟している、という指摘もある。
何も難しい話ではない。全員にパイが行き渡らないのであれば、パイの増産に励まねばならないが、パイの総数がすでに十二分なのであれば、それをどう配分するかが問題になるのだ。現在の日本の貧困は、労働の成果を得るための生産力の不足というより、生産された富の配分の不適切さによるところが大きい。グローバル経済の競争の結果、低いままに留め置かれた賃金や、金持ち優遇の税制、生活保護の捕捉率の低さ(統計によってまちまちのようだが、だいたい約2割程度)に象徴される福利厚生の粗雑さ。それらが貧困の大本なのであって、経済成長率の低迷が原因なのではない。
また、厳密には日本経済は、バブル崩壊以降もつねに成長し続けている。その成長率は高度経済成長期と比較すればゆるやかな、低成長ではあるものの、成長していることには違いないのだ。
それに、急激な経済成長は、地球環境に大きな負荷をかけかねないし、将来世代に負債を残してしまう恐れだってある。経済成長には、「節度」も必要なのだ。かつて高度経済成長は、公害ももたらした。高い経済成長を盲目的に良しとするのは、あまりに短絡的すぎる。
このような事実があるにも関わらず、現在の日本は「失われた30年」の中にあるという。なぜそのような言い方をするのだろうか。それは、高度経済成長のような成長率こそが、あるべき成長率だという思い込みがあるからだ。そう、それは単なる思い込みでしかない。虚心にデータを眺めれば、日本経済はずっと成長していることがわかるし、それを「失われている」とするのが不適当だということがわかるだろう。
なぜそのように認識を改めることができないのか。それは、思い込みの強さゆえ、異なる意見を聞けず、違う角度の視点を持てずにいるからだ。経済成長を至上とする人たちの思い込みというのは、それほど強固なのである。この偏執的な思い込みを解除するには、どうしたらいいのだろうか。
それにはやはり、怠ける美徳を持ち出さねばならないだろう。

断っておくが、僕は勤労の美徳を全否定はしない。それもひとつの価値だと思うし、これからも道徳のひとつとしてあり続けていいとも思う。僕が言っているのは、なぜ勤労の美徳「しか」ないのか、ということだ。なぜ怠ける美徳は認められず、勤労の美徳との共存が許されないのか、ということだ。
怠ける美徳を旨とする僕は、勤労の美徳を旨とする人たちと、共存する用意がある。しかし、勤労の美徳を旨とする人たちはそうではない。勤労の美徳を旨とする人たちは、怠ける美徳を認めようとしない。怠ける美徳を旨とする人たちとは共存したくないと、怠ける美徳を棄却し、勤労の美徳に転向するべきだと思い込んでいる。
なぜ共存できないというのか。それはただの偏見ではないのか。
勤労の美徳と怠ける美徳は、二律背反の関係にあるわけではない。必ずしも一方が存在すれば他方が棄却されるというものではなく、人々の気持ちの持ちようで併存させることも可能なはずなのだ。そのありかた、社会設計について、今から模索を始めるべきではないだろうか。
その日は、間もなく来ると言われている。技術革新の速度が急激に高まることもあるだろうから、意外とすぐそこまで来ているのかもしれない。その来るべき未来に、勤労の美徳という道徳「しか」ないのでは、辛すぎる。来るべき未来を受け入れるには、怠ける美徳「も」必要なのだ。
勤労の美徳と怠ける美徳。このふたつの道徳が並び立ってこそ、来るべき未来、人間が働かなくていい時代を心穏やかに受け入れることができるのだ。勤労の美徳「しか」ないのなら、それはディストピアになってしまう。せっかく遊んで暮らせる(僕からしたら)夢のよう社会が実現したとしても、それを肯定的に受け入れるための道徳が基本条件として社会に備わっていなければ、悪夢に「見えてしまう」のだ。
だからこその「怠ける美徳」なのである。
怠けることは美しい。無為は輝かしい。何も生み出さないって素晴らしい。そんな怠ける美徳が、これから必要になってくるのだ。それは決して勤労の美徳を排除しない。勤労の美徳との共存を選ぶ。だが、勤労の美徳よりも上位の道徳として承認されるようになるだろう。
話はそれだけにとどまらない。怠ける美徳は、ブラック企業対策や過労死対策にも資するのだ。薄給でこき使われたり、命を削ってまで働いたりといった理不尽を、勤労の美徳は覆い隠してしまいかねない。理不尽から目を逸らしたり、むしろそれは素晴らしいことなのだと、解釈を歪めさせてしまったりする。だから、ブラック企業をのさばらせないためにも、1件でも多く過労死を減らすためにも、怠ける美徳は不可欠なのだ。
勤労の美徳を旨とする人たちだって、仕事に打ち込みすぎることの弊害を、ちゃんと理解しているはずだ。戦後復興このかた、高度経済成長からバブル崩壊まで、日本人は身を粉にして働いてきた。それこそが大人として、社会人として、良識ある人間としての当然のありかただとされてきた。でも、経済成長の代償として失われてきたものもたくさんある。個人が個を殺し、社会の歯車として働き続け、会社の成長や日本の国力増大を成し遂げる代わりに、心を病んだり、体を壊したり、過労死に追いやられたりしてきたのだ。
「失われた30年」が訪れる以前、それは経済面では得られるものばかりであったかもしれない。しかし、その代償として、経済以外のものが失われてきたのだ。ならば「失われた30年」とは、経済力を失う代わりに、過重労働によって失われていたものを取り戻してきた30年だったと見ることもできるだろう。
ならば、この30年を無駄にするべきではない。失われた30年とは、ネガティブにとらえるべきものではない。それはむしろ、ポジティブなものなのだ。経済ばかり追求してきた過去を反省的にとらえなおし、労働環境の問題点をえぐり出し、勤労は美徳であるという道徳を考え直すための機会だったのだ。
だとすれば、失われた30年とは、これから先、来るべき未来へ向けての滑走期間だったということになる。来るべき未来へ飛び立つための助走。新しい価値観に触れ、それを理解し、受け入れるための準備期間。それこそが失われた30年だったのだ。
今、その準備期間を経て、飛び立たねばならない。怠ける美徳が主流の道徳である社会へ。働かざる者も食べていい社会へ。仕事以外の多様な価値観、多様な生き甲斐が併存する社会へ。
勤勉革命を相対化する、「無為革命」を起こさねばならない。
無為革命後の世界は、どのような世界になるのか。それは当然、無職者が非難されず、疚しさを感じる必要もない世界となる。ベーシックインカムによって、すべての人の最低限の生活が保障され、お金の心配をしなくてもよくなる。なおも働き続けたい人は、自由に働くことが認められる。いざとなれば生活の保障があるので、劣悪な環境の職場に懸命にしがみつかなくてもよくなり、その結果、ブラック企業は淘汰され、優良企業だけが生き残る。
怠け者が縁側でゴロ寝する横を、勤勉な労働者が通り抜け、「気持ちよくされていますね」「精が出ますな」とお互いを称え合う。それが、勤労の美徳と怠ける美徳が共存する社会だ。
ああ、早くそんな、働かなくてもいい世の中にならないだろうか。僕は本気でそう思っている。


オススメ関連本
湯浅誠『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書)
雨宮処凛『反撃カルチャー――プレカリアートの豊かな世界』(角川学芸出版)
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』(太田出版)
石井あらた『「山奥ニート」やってます。』(光文社)
酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎――クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』(講談社現代新書)
レイチェル・ボッツマン、ルー・ロジャース『シェア――〈共有〉からビジネスを生みだす新戦略』(NHK出版)

キングオブコント2023 感想

2023-10-24 23:44:10 | 雑文
ようやく真夏日もなくなり、暑さに朦朧とすることもなくなりましたが、昼夜の寒暖差がけっこう大きいので、それはそれでしんどい今日この頃、「お笑いの日」はすでに年中行事になっているのかどうかが気にかかる、キングオブコントの感想をお届けします。
最近めっきり感想文が遅めの公開になってて申し訳ありません。年々批評の精度が上がっていると自負してはいるのですが、そのぶん書き上げるのに時間がかかっちゃうんですよね。
今年のファイナリストは全員知ってる組。だいたい毎年1組くらいは初見がいるものですが、今年はゼロ。なので、フレッシュ感はないのですが、全組の過去と現在の変化(および成長)を観測できる大会になりました。

個別の評価は以下の通り。まずはファーストステージから。


カゲヤマ・・・仕事でミスをしたサラリーマンが得意先に謝罪するネタ。ふすまの奥で謝っていた先輩が、いつの間にか裸になっていた。
正直言うと、あまり好きではありません。裸にはあまり好意的ではないというか、「裸になりゃそれでいいと思ってんのか?」って気になっちゃうんですよね。笑い取りやすいじゃないですか、裸って。だから安易に脱いでほしくないというか、脱ぐならそれなりの工夫が欲しいのです。だから、裸が出てくるとどうしても厳しめに見てしまう。
益田がふすまの向こうで早脱ぎ早着替えをしている姿を想像すると笑えますし、だらしな目のボディもたしかに面白いですが、ここまで高得点になったのは理解できません。あと、前半までふすまの間から何か黒いのがチョロっと出てるのが気になりました。アキラ100%的ヒヤヒヤ要素が入っていたのと、靴下が白なのはよかったですね。裸に靴下の場合、靴下の色は白が一番面白いですからね。

ニッポンの社長・・・親友2人が思いを寄せる女性をめぐってケンカする。ひとりは普通に拳で殴りかかるのに、もうひとりは武器を使う。しかも相手がそれを当然のように受け入れている。
こういう暴力的なのって受け付けない人もいたりしますけど、そういった拒否反応が起きていなかったのは、2人のキャラクターゆえか、世界設定の妙か。
バカバカしさの極致。好き。単純に武器の破壊力がエスカレートしていくだけで面白い。なぜこれがカゲヤマより低いのかがわからない。

や団・・・劇団員のネタ。厳しくて、灰皿を投げるタイプの演出家の演技チェックを受ける。灰皿が薄っぺらいうちは激高しまくるが、重厚な灰皿に替わると怒りづらくなってしまう。
まず、よくこの灰皿見つけてきたな、ってところに感心しちゃいます。底がちょっとコマみたいになってて回転する。ですが、中嶋の灰皿の置き方が不自然でしたね。「ちゃんと回るように」って意識しすぎたのか。灰皿が回転して止まるまでの「間」が笑いどころで、僕はこのような間が大好きなのですが、灰皿を置く動きを自然に見せてくれないと、素直に笑うことができません。あと、演出家がよくわからない横文字使うキャラなら、その横文字が灰皿投げにも絡んでくるというふうにしてはどうでしょうか。

蛙亭・・・彼氏にフラれた女と、自分の誕生日に寿司を買った帰りの男。いかにも蛙亭っぽい世界観。
中野が登場とともにハデに転んで寿司を潰す場面がインパクト強く、大きな笑いが起こりましたが、あとはそれを超えることができませんでした。面白いし、セリフの流れもよく出来ているのですが、笑いはちょい弱め。笑いよりもドラマ性が優っているというか、「単独ライブの10本中4,5番目」くらいのネタというかんじです。これが今持ってこれるベスト?蛙亭はまだまだこんなもんじゃないと信じたいです。しかし、中野のキャラは得難いものであるとつくづく実感。

ジグザグジギー・・・市長の就任記者会見のネタ。元お笑い芸人であるため、大喜利のようなマニュフェスト発表になってしまう。
「IPPONグランプリ」と「笑点」観たことないと面白さが伝わりづらいように思いました。チェアマンの目の前でモノマネのイジリができたのは、さぞ気持ちよかったことでしょう。バカリズムっぽいフリップもありましたね。
かまいたちの山内が指摘していたように、元芸人なら大喜利だけでなく、もっといろんな「芸人あるある」や、ついうっかり出てしまう「芸人のクセ」を盛り込んでいればメリハリが出たと思います。

ゼンモンキー・・・親友の彼女に言い寄ってしまった男。それがバレてケンカになる。ケンカのさなかに純朴な男子高校生がお参りにやってきて、いつの間にか3人の争いになってしまう。
三者三様のキャラ設定で、トリオの特性を充分に活かせており、掛け合いも絶妙でした。ですが、バイきんぐ小峠が指摘していたとおり、先の展開が読めてしまいます。高校生が、「絶対に付き合いたい人がいる」と言った時点で、その相手が、2人が奪い合ってるアヤカのことなのではないかと。なので、その予想を裏切ってくるか、予想通りになってなお、その先の予想外の展開を持ってくるかにしたほうがよかったですね。
あと、ステージ中央にデーンと鎮座してる賽銭箱。このストーリーに必要なセットではあるのですが、せっかく目立つ場所にあるなら、賽銭入れる以外の使い方をしてほしかったです。

隣人・・・動物園でチンパンジーに落語を教える噺家・・・ってなんだそりゃ?こういう奇抜な設定って、ヘタすりゃ大スベリの可能性がありますので、このネタで挑んだ度胸は称えたい。片方がしゃべれないというハンデもありますしね。
落語家が途中からチンパンジー語で話し出す。それは落語を教えるための工夫ですが、いわば「歩み寄った」わけですよね。だったら、いつの間にかチンパンジーのペースに乗せられて、主導権を握られ、こちらが教えられる側に回っていた、みたいな展開だったらどうでしょう。いかにも落語っぽいダジャレのサゲは好き。
「浜ちゃんに叩かれたら売れる」というジンクスがあるため、気持ちはわからなくはないのですが、橋本、いくらなんでも喜びすぎ。ヤザキくらい抑えましょう。

ファイヤーサンダー・・・サッカー選手の日本代表選抜発表。代表候補の選手かと思わせといて、実はモノマネ芸人。
いいですね。お笑いに必要な「裏切り」と「意外性」。それを冒頭でガツンとかまされます。ほかのモノマネ芸人との競合、ゼロから何かを生み出せない、ご本人の記者会見乱入と、起伏に富んだ展開がありました。全体的なまとまりの良さでいったら今大会一ですね。僕は一番面白かったです。

サルゴリラ・・・てっきり芸歴10年ちょいくらいかと思ってたのですが、まさかファイナリスト史上最年長とは。TKOよりも上?ジグザグジギーやラブレターズより苦労人だったんですね。
感覚がズレたマジシャンがネタ見せをする。わかりづらかったり、違うポイントが気になってしまうマジックばかり。
なんかチョコプラっぽい。2人の演技はうまいけど、おかしなマジック自体は、ちょっと考えれば誰にでも作れるんじゃないかって気がしました。雰囲気のためにBGMを流していたので、これが伏線になってるのかと思いきや何もなし。だったらいらなかったのでは。靴下にんじんがイカ箱からペロンと出てるのがマヌケで笑える。最後に赤羽が怒りの表情のまま無言で終わる演出はよかったですね。児玉の声は個性的でクセになる。手を震わせながら頑張りました。

ラブレターズ・・・彼女の両親に挨拶に行く男。アパートでシベリアンハスキーを飼っており、隣人トラブルをかかえていた。
室内なのにサンバイザー?おばさんの記号?狂気性の表れのようでもあります。
壁をバンバン叩いていたため、若干セリフが聞き取りづらくなっていました。壁を叩く回数が多いほど異様さが強まるわけですが、そのぶん「騒々しさ」も高まってしまい、「騒々しい不快感」が「面白さ」を相殺してしまっていたかもしれません。お隣さんがVチューバーという設定も、もう少し活かしようがあったのでは。最後にボケとツッコミが逆転するのは強引なかんじ。
まつもときんに君が「順番が違っていたら」と言っていましたが、本当に順番が早ければもっと高得点だったでしょうか。僕はそうは思えませんが。


続きましてファイナルステージ。


ニッポンの社長・・・外科手術のネタ。単純な盲腸手術のはずなのに、臓器を次から次に摘出してしまう。
今回ニッポンの社長は、「エロ・グロ・バイオレンス」の、グロとバイオレンスで勝負したわけですね。このように前フリが長い場合、一発目の笑いはかなり大きいものになるべきなのですが、ちょい小さめ。笑いの手数も少なめで、ならばそのひとつひとつの笑いが大きかったかというとそうでもなし。このネタで挑んだ度胸には拍手を送りたいですが、失敗だったと思います。大腸(?)に掃除機の黄色テープついてたのはよかったですね。
あと、手術中というリアリティのために照明を薄暗くしていましたが、これも失敗だったかもしれません。人間心理として、「明るいほうがより面白く感じ、暗いほどつまらなく感じる」という傾向があるかもしれませんから。

カゲヤマ・・・仕事ができる優秀なサラリーマンの部下。しかしなぜかデスクの上にウンコを置いた犯人だった。
「益田君のDNAと一致したよ」からの長い間。その間のあとのセリフは「僕はどうなるんですか」ではなかったな・・・。あれだけたっぷり間を取ったなら、もっとドカンとでかい笑いが起こるセリフを持ってくるべきで、明らかに間の長さに比べて笑いが小さい。残念。頑なに動機を話さないことで立場を逆転させる筋書きはお見事。サイコパス感ただよう、ちょっと怖いネタでもあります。

サルゴリラ・・・高校最後の試合を終えた球児を励ます監督。すごく感動的なことを言いそうなのに、すべて魚にたとえるため、意味不明になってしまう。
個人的には一本調子にかんじました。「相手の気持ちを逆なでるな」のような変化をもっと混ぜてほしかったです。焼き魚とか刺身とかウロコとかさかなクンとかね。サカナクションをBGMにするとかね。
しかし最年長優勝は喜ばしいです。苦労人が報われました。


去年優勝したビスケットブラザーズのコント、僕は2本ともいい評価をしませんでした。世間の評価と自分のそれはズレてることがある。今回はそういうことだと。しかしそのビスブラ、いっこうにブレイクせず。なんか示唆的だなあと思っちゃいましたよ。
今回トップバッターのカゲヤマが高得点をたたき出したこともあり、全組点数高めになりました。例年80点代が出るものですが、今回はゼロ。そのうえ、「1番手は優勝しない」というジンクスを打ち破ってカゲヤマが優勝するのではないか、という期待さえ持たせてくれました。なので、個人的にはイマイチだったけれども、カゲヤマが今大会のMVPと認めざるを得ませんね。
なぜか「ひとりの女性をめぐって争う」のと「娘さんをくださいの挨拶」でネタかぶり。サル・ゴリラ・チンパンジ~♬が勢ぞろい。
浜ちゃんの奇行は結果発表とともに名物になっていくのでしょうか。そして、今年も西村はいらなかった。

キングオブコント2023 優勝予想

2023-09-28 23:31:31 | 雑文
去年の夏の暑さは気象庁が異常気象と認定していましたが、今年は国連のアントニオ・グレーテス事務総長が「地球沸騰化の時代が到来した」と言うほど世界的な猛暑となり、9月も終わろうというのに暑さはあまり緩まず、気象庁によれば10月前半までは真夏日になる可能性があるらしいという今日この頃、皆さんご機嫌いかがですか的なキングオブコントの優勝予想です。当ブログの風物詩が今年も帰ってきました。
今年もまた、お笑いの日(10月21日)に決勝が行われることとなった、コントの祭典KOC。今年のファイナリストはベテラン多め。苦労人が報われそうな予感がします。

ファイナルに残ったのは以下の10組。


ゼンモンキー
隣人
ファイヤーサンダー
カゲヤマ
サルゴリラ
ラブレターズ
蛙亭
ジグザグジギー
や団
ニッポンの社長


この中から僕が予想する優勝第1~第3候補は次の通り。


①ファイヤーサンダー・・・観たことあるんですよ。観たことあるし、面白いという記憶もある。でも、どういうネタだったかはまったく思い出せないのです。思い出せないけど、面白いということは間違いないし、こういう芸歴10年くらいのが一番勢いあるんじゃないか、ちょうどいい勝負ネタ持ってこれるんじゃないかという気がするんで第1候補。

②ジグザグジギー・・・7年ぶり3度目の決勝進出。まあ苦労人ですよ。一時期はちょいちょいテレビにも出てましたけど、最近はさっぱりですからね。露出がなかった期間にネタ仕上げてきてるんじゃないか、そろそろ報われてほしいという期待を込めて第2候補。

③や団・・・去年はまあ面白かったですね。「白黒アンジャッシュ」で、劇場でかけまくったネタだったと打ち明けてました。これまでのキャリアの中で作り上げてきた面白いネタいっぱいあるんでしょうけど、去年はその中で一番いいネタ持ってきたわけで、今年それを超えられるのかが少し不安です。今以上にスポットライトを浴びてほしいという願いを込めて第3候補。


ほかのファイナリストにもひとこと。


ゼンモンキー・・・若手のトリオ。今面白い若手増えまくってて競争大変そうですけど、その中で頭半分くらい出てるのがゼンモンキー。なんとなく、優勝にはちょっと早いんじゃないかと。

隣人・・・ゼンモンキーと同じく、優秀な若手の1組。ツウが好む芸風(なんか真空ジェシカっぽい)。発想がけっこうニッチというか、あまり万人受けするタイプじゃないと思うんで、優勝は難しいかと。

カゲヤマ・・・去年M-1の準決勝行ってましたよね。観た限りでは、そのコミカルすぎる芸風、あまり好きじゃありません。

サルゴリラ・・・元々ジューシーズというトリオだったのが、家事えもんこと松橋周太呂の脱退により解散。2人でサルゴリラとして再出発しました。ジューシーズ時代はけっこう調子よかったんですけど、サルゴリラ以降はさっぱり。これきっかけで少しでも売れてくれれば。

ラブレターズ・・・7年ぶり4度目の決勝進出。初めてファイナリストになったの、けっこう早かったんですよね。なのになかなかブレイクせず・・・。ジグザグジギーと同じく、報われてほしい苦労人コンビなのですが、なんとなく「これ」という武器がないような気がします。

蛙亭・・・2年ぶり2度目の決勝進出。なんかイワクラが、彼氏できて緩んでんじゃねえか、私生活が満たされててパワーを失ってんじゃねえかって気がします。それでも充分面白いんでしょうけど、優勝まではいかないかと。

ニッポンの社長・・・今年で4年連続のファイナリスト。それだけですごすぎる。ですが、僕にとってニッポンの社長は、ずーっと「今一歩」なんですよ。「けっこう面白い」けど、「めちゃくちゃ面白い」まではいかない。好みってことでしょうか。いずれ「めちゃくちゃ面白い」に到達してくれそうな気もするのですが。


皆さんもよろしければコメント欄から優勝予想にご参加ください。第1~第3候補まで予想可とさせていただきます。今回も当たっても何も出ません。
gooブログのコメントフォームには名前とタイトルとURLの入力欄がありますが、これらは必須じゃなくて、コメントだけでも投稿できるはずですので、お気軽にお寄せください。

女性の社会進出が達成された先に待ち受けているかもしれないこと――「解放」の原理のために

2023-05-01 22:46:03 | 雑文
宮台真司と野田智義の共著『経営リーダーのための社会システム論――構造的問題と僕らの未来』(光文社)を読んだ。
この本は、社会学者の宮台と、特定非営利活動法人ISL(アイ・エス・エル)創設者の野田が、次世代の経営リーダー育成を目的として、大学院大学至善館で開催した講義を収録したものである。この中の第3章「郊外化がもたらす不全感と不安」で、話題が秋葉原通り魔事件に象徴される無差別殺人に及んだ際、宮台が、人は進化生物学的に集団でいるほうが生存確率が上がるため、孤独を苦痛に感じやすくなっているが、現代では社会的つながりが希薄な者が増えており、そのことが様々な社会問題の大本となっているとして、次のように述べている。


僕が1980年代に幾度かやった大学生を対象とした大規模統計調査では、男性よりも女性の方が友だちが多いのです。つまり、孤独というファクターについて見ると、男性の方が孤独にさいなまれやすいことがうかがえます。
じゃあ、それはなぜか。もちろんゲノム的ベースの違いも考えられますが、社会学者の多くが注目するのは、ジェンダー・ディスクリミネーション(社会的な性差別)です。男性は差別されない分、高いポジションやステータスを手に入れやすい。女性は差別される分、低いポジションやステータスに甘んじなければならない。
(中略)男性は友だちが少なくても孤独でも、競争に勝っている限りにおいては「俺は勝ち組だ」と思っていられます。しかし、女性に比べれば「勝って当然」ですから、勝ち組になれなかったら一気に丸裸になり、相対的剝奪感を抱きやすくなります。
他方、女性はもともと社会的上昇の可能性が低く抑えられているため、しあわせに生きていくには、男性が注目しにくいファクターを大切にして、友だちもたくさんつくるし、人間関係も大切にしなければならない。だから、勝ち組になれなくても相対的剝奪感は抱きにくい。「弱者は、システム世界=法よりも、生活世界=掟を頼る」というのが社会の摂理です。
(中略)
ピースボートという国際親善のための世界一周の船旅があります。何度か乗りましたが、このクルーズは3カ月かけて各地を巡るので、参加者に現役世代はほぼいません。乗っているのは高齢の夫婦ばかりです。食堂に行くと、同じテーブルで食べている夫婦は少なく、高齢女性のグループと、高齢男性のグループに分かれます。ところが、おばあちゃんたちのテーブルでは誰もがにぎやかにしあわせそうに食べているのに、おじいちゃんたちのテーブルでは会話がまったく交わされません。


宮台はさらに、かつて仕事を引退した高齢者には、孫の世話をするなどの家族・親族内でのポジションや、囲碁や将棋のクラブなどの地域の集会所があったが、今やそれらはほぼ消滅し、高齢者を包み込む中間共同体がなくなったことを指摘。そのことがカスタマー・ハラスメントを繰り返す高齢男性のクレーマー増加につながっていると述べているのだが、この箇所を読んで、ふと思った。
今後女性の社会進出が進めば、女性の自殺率は男性並みに高くなるかもしれない、と。
周知の通り現在の日本では、女性が社会的に低い地位に甘んじることを余儀なくされている。世界経済フォーラム(WEF)による、男女間の格差を示すジェンダー・ギャップ指数は、2022年に146か国中116位。管理職でも政治家でも女性の比率は低く、日本社会における男女の非対称性の端的な表れとされている。それゆえ目下、このアンバランスを解消すべく、ギャップの是正を訴える声が国内のそこかしこで上がっているのだ。
社会で高いステータスを手に入れることを社会進出と定義するのであれば、確かに日本の過半数の女性は社会進出できずにいる。これを議論の余地のない社会問題と認識する人々が、日本をもっと女性が活躍できる社会に変えるべく、各方面で取り組みを行っているのだ。しかし、本当に女性の社会進出は進展したほうがいいのだろうか。何か陥穽がありはしないだろうか。
この点を考えるのに先立って、まず自殺について検証を加えたい。現代の日本では、女性より男性の自殺者数が多く、特に中高年男性の自殺率が突出して高い。それは、男性の社会的特権の代償だ。
厚生労働省自殺対策推進室のデータによると、2022年度の男性の自殺者数は女性の約2.1倍。年齢階級別では、40代と50代が最も高く、それぞれ3551人と3827人(女性では1456人と1685人)。コロナ禍によって女性の自殺者数が増加傾向にあるというが、それでも過去100年分のデータ(2010年以前は厚生労働省ではなく、警視庁の統計)を見ると、男性の自殺率は概ね女性の2倍~3倍弱で推移している。
自殺の動機は様々だろうが、男性の場合、社会の中で高いステータスを手に入れる権利を保障されていることの代償として孤独になりやすい、というのが大きな要因として考えられる。
職場の中で上を目指すには、他人を蹴落とさなければならない局面もある。それゆえ、高いステータスを手に入れんとする男性にとって、同僚は親しい関係を構築する相手ではなく、競い合い、反目せねばならない対象であったりする。
そして、その代わりに会社の外では親しい人間関係を築いているかというと、必ずしもそういうわけではなく、1日の大半、人生の大半を仕事に費やし、私生活の中身はスカスカだったりする。仕事で成果を出せは出すほど上に行ける。長時間働けば働くほど成果が出せる。だから成果を出し、上に行くにはできるだけ長時間働かないといけない。だから上を目指す男性は、私生活を犠牲にして仕事に没頭するのである。「過労死」が日本生まれの言葉として世界に知られるようになったのは、故なきことではない。働き方改革などの意識改革によって、労働時間の見直しや、残業の削減・廃止など、職場に長時間縛りつけられないための取り組みが徐々に進展してはいる。しかし、根本のところで「滅私奉公」を良しとする固定観念は、未だ強固に息づいているのではないだろうか。
ただ、社会的上昇を至上とするのであれば、それでもいいのだ。友達を増やすより、出世のほうに重きを置いており、本人がそれに心から納得しているのであれば、他人がとやかく言うことではない。
しかしそれは、「順調に出世するなら」の話。思うように出世できないこともあるし、不況や経営不振によって左遷、もしくはリストラされたりすれば、男性は、自分を包み込んでくれる人間関係を持たないまま会社の外に放り出されてしまう。社会の中に満足できる居場所を持たず、親しい友人もおらず、ただ孤独な「個」として投げ出されるのだ。それが何を帰結するか。
さらに言えば、運よく社会的上昇を遂げ、高いステータスを手に入れたとしても、結局は退職するまでのこと。いずれ必ず、職場を去らねばならない時がくる。定年を迎えれば、会社の中でどのような地位にあったかとは無関係に、やはり孤独に陥りやすくなる。会社の外の関係、友達などの人間関係を築いてこなかったツケが、一気に巡ってくるのだ。
孤独は、希死念慮を招きやすい。全員が全員ではないにせよ、孤独であればあるほど自死を意識しやすくなる。
このように、中高年男性の自殺率の高さは、男性中心社会の代償としてある。親密な人間関係よりも、社会的ステータスを優先する生き方を理想として選び取ってきたこと。もしくは、選び取るよう差し向けられてきたこと。それが中高年男性を自殺へと追いやる主な要因なのだ。
年配の男性の中には、最近の若者が仕事より私生活を充実させたいと考えていたり、出世をあまり望んでいないことを嘆く人もいる。「今の若い連中は根性がない」と。しかし、なるだけ長時間働き、上の役職を目指すということは、私生活での人間関係を切り詰め、過労死や孤独による自殺の蓋然性を高めてしまうということに他ならないのだ。だから僕は、勤労を美徳とする価値観は過労死の容認につながりかねないし、日本人はもっと仕事から離れるべきだと思っている。

かつてフェミニズム運動華やかりし頃、「女性解放」が叫ばれる裏で、「男性解放」を訴える声が一部に存在した。1970年代のことで、僕はそれをリアルタイムで体験しているわけではないのだが、フェミニズムの徹底のためには、女性解放のみならず、男性解放も不可欠ではないか、という議論であった。
男性中心社会における、男性が排他的に占有する特権。それが男性にとって重荷になっているから、そこから解き放たれねばならないという、「解放」の提唱がなされたのだ。特権は有益なものではなく、むしろ負担なのだと。
男性中心社会において、男性は多くの規範を求められる。いわく、「男は強くなければならない」「男は戦いに勝ち残らなければならない」「男は泣いてはいけない」。これらの規範を鎧として身にまとい、男性は社会に出てゆく。現在ではこれらの規範は旧弊な因習として表向き否定されてはいるが、「暗黙のルール」として未だそこかしこに息づいている。男性の育休取得率が女性と比べて著しく低いのは、この暗黙のルールのプレッシャーによるところが大きい。70年代当時からこの鎧(=規範)の重さに悲鳴を上げていた男性は少なからずいたし、現在ではさらに増加傾向にあるだろう。
権利には、必ず責任が付随する。男性としての特権を享受したいのであれば、鎧の武装は必須なのだ。しかし、鎧の重みに耐えられない男性もいるし、そもそも鎧なんか着込みたくない、という男性だっている。逆に、この規範(=鎧)に従順な男たちほど、よく些細なことで諍いを起こす。それがエスカレートすると喧嘩になり、運が悪いと死に至る。この規範のせいで死んでしまう男性もいるのだ。戦争だって、男同士の馬鹿げた意地の張り合いの延長線上に起こるものだ。馬鹿げたものを馬鹿げていると認識できないが故の悲劇。それは今もなお、多くの人を死に至らしめている。だから、鎧を身にまとうことの必然性が問い直されたのだ。
男性に「男らしさ」を強いる社会の不健全さ。「男らしさ」がなければ立ちゆくことができない社会構造の理不尽さ。これらに疑問符を突きつけ、本当はなくてもいいもの、むしろないほうがいいものを無条件に当為としてきたのではないか、という問題提起を行うこと。これが男性解放の主題であった。それは女性解放における「女らしさ」の拒絶と対を成すものでもあった。
男性解放は、男性のためにのみあるのではない。男性解放が進めば、男性が男性規範の軛から解き放たれ、独占していた社会的地位から降りることに抵抗がなくなる。するとそこに、女性が入り込める余地が出てくる。「男は強くなければならない」という規範が自明のものでなくなれば、「強さ」にも「競争」にも執着する必要がなくなる。だから、男性が女性に威張り散らすこともなくなる。
つまり男性解放は、同時に女性解放も帰結するのだ。女性解放も、男性解放も、同じひとつの目標を、違う道筋で辿ろうとした試みだった。輻輳関係にあった、とも言えるだろう。
ともに「らしさ」を否定し、ジェンダーに応じた画一的な規範の押し付けからの脱却を目指した女性解放と男性解放。しかし、翻って現在。今なおジェンダー・ギャップの開きが大きいままに留められ、男性の自殺率が極端に高いままの現状を鑑みれば、女性解放も男性解放も、ともに不徹底・未達成であることに疑いの余地はないだろう。

宮台が紹介したピースボートの光景は、僕にも心当たりがある。僕はかつてホームヘルパー2級(現・初任者研修)の資格を取得したのだが、その過程でデイサービスに実習に行ったことがあるのだ。
デイサービスは、朝に車でお年寄りを迎えに行き、夕方まで食事や入浴のお世話をする。施設に集まったお年寄りは、基本的にみな、広間で半日を過ごす。
その広間での様子が、おじいちゃんとおばあちゃんではまったく対照的だったのだ。おばあちゃんたちはおしゃべりをしたり、趣味に没頭したり、各々充実した時間を過ごしているのに対し、おじいちゃんたちときたら、せいぜい新聞を読む程度で、ほとんどの人が黙り込んだまま微動だにせず所定の席に座り続けていたのだ。その姿は、ひたすら苦行に耐えているかのようだった。
僕がデイサービスを訪れたのはその実習1日だけだし、ほかの施設の実情は知らないのだが、日本中のすべてのデイサービスで毎日そこと同じ光景が繰り返されているであろうことは想像に難くない。ことほどさように、日本人男性は親しい人間関係を築き上げるのが下手なのである。
もし今後、女性の社会進出が進展した場合、女性の自殺者数も、男性並みになりはしないだろうか。女性たちも、高いステータスを手に入れることの代償として人間関係が希薄になり、孤独を感じやすくなって、その結果自殺率が上昇する、ということになりはしないだろうか。
聞いた話では、管理職の女性の中には、男性ホルモンの分泌が増え、生理不順になってしまう人もいるという。人の上に立ったり、あれこれ指示を出したりすることが、女性の身体性に反してしまうこともあるのだ。女性の社会進出は、必ずしも女性を幸せにするとは限らない。
断っておくが、だからといって僕は「女性は社会進出をすべきではない」と言おうとしているのではない。女性側が本気で社会進出を望んでいるのであれば、それは最大限かなえられるよう、社会全体で取り組むべきだと思う。
ただ、今の論調はあまりにも後先を考えなさすぎではないか、と思うのだ。女性の社会進出は良いことずくめで、憂慮すべき点など何ひとつないかのような言い方、女性が活躍できていない現在が問題だらけなのであって、女性が活躍できるようになればそれらの問題がきれいに払拭できるかのような言い方がなされている。その見方は、あまりに単純すぎると思う。
女性の社会進出は、必ずしも良いことばかりとは限らない。少なからず弊害だってあるはずなのだ。その可能性について、考えがまったく及んでいない。これは危険だと思う。実際に女性の社会進出が達成されたあとで弊害に気づいてからでは、色々と取り返しがつかなくなってしまう。
なので、現在の「女性の社会進出を推し進めるにはどうしたらいいか」という議題を、
「女性を不幸にしない社会進出はどのような形になるのか」に置き換えるべきではないだろうか。

先述した「女性の社会進出が進むと女性の自殺率が上昇するかもしれない」というのは、あくまで僕の推論に過ぎない。ひょっとしたら的外れな、単なる杞憂であるかもしれない。
しかしだとしても、「女性が社会進出することで生じる弊害」は、自殺率の上昇以外にも起こりうるかもしれない。僕には今のところ思い浮かばないが、自殺率の上昇や生理不順以外に、何かしらの不幸が女性を襲うかもしれないのだ。だから、真剣に女性の幸福を慮るのであれば、前もってそれらの可能性を加味した慎重な議論をしておくことは、必要不可欠な手続きだと思う。
繰り返すが、「女性の社会進出は必ずしも女性を幸せにしないかもしれない」という考えは、的外れであるかもしれない。しかしそれでも、現在の「女性の社会進出を希求する訴え」はあまりに単純すぎる、ということは断言できる。後先をまったく考えていないのだ。本当にそれで女性が幸せになれるのか、不幸になる恐れはないのか、といった批判的な視点が完全に欠落している。それらの可能性を検討せずして社会進出を推し進めるのであれば、不幸な未来が待ち受けているかもしれないのだ。反動の誹りを免れないかもしれないが、「女性は社会進出しないほうが幸せかもしれない」という批判的視座だってあったほうがいい。あらゆる可能性を排除せずに検討すべきなのだ。
「社会進出を達成するためのやむを得ない代償として、あえて自殺率の上昇などの不幸を受け入れる」というのもひとつの選択なのかもしれないが、そんな未来を望んでいる女性などひとりもいないだろう。
そして、「女性を不幸にしない社会進出」が達成されれば、それは「男性解放」にも寄与するだろう。女性の、自殺率を上昇させない社会進出・人間関係を希薄化させない社会進出が達成され、その筋道が理論化されれば、それを応用することで、希薄な人間関係に苦しみ、自殺に追いやられる男性を救うことができるかもしれないのだ。(より厳密に考えると、管理職の男女比が半々になれば、男性が出世競争から降りることに抵抗がなくなったり、出世競争の苛烈さが緩和されたりすることによって、自然と解放に向かい、自殺者数が減少する、という変化も期待できる)
親しい人間関係を築くことが不得手な男たち。テーブルで隣り合った人と気楽におしゃべりを交わすことができない男たち。孤独に陥りやすく、最終手段に自死を選ばざるを得ない男たち。
これら男たちの不遇は、社会的地位を専横してきたことへの、当然の報いなのだろうか?
そんなことはない。「男はかくあるべき」という社会の規範によって、男たちは高いステータスを目指すよう仕向けられている。たとえその社会設計そのものが男性の手によるものであったとしても、みながみなそれを望んでいるわけではない。好むと好まざるとに関わらず、「男なら当然のこと」として強いられているのだ。拒絶すれば「女々しい」という烙印が待ち受けている。そこには、ほぼ選択の余地はない。
社会設計に携わった人にせよ、女性を締め出したいとか、社会的地位を独占したいといった願望しかなかったわけではなく、女性を養う「強者の責任」を念頭に置いていたはずなのだ。重い役目、厳しい仕事は自分たちが引き受けると。苦役を女性に押し付けてはならない、男性が斉一に担っていればいいと。社会的地位を独り占めしてきた男たちを、単純に悪者として責めることはできない。

「女性を不幸にしない社会進出」はどのようなものになるのか。その設計図はどのような形をとるのか。僕の頭ではうまく想像することができない。専門家の提言を仰いだり、当事者の女性の意見を広く集めるための公聴会を開いたりといった手続きの積み重ねが必要になってくるだろう。
とりあえずできるのは、現状に「まった」をかけることだ。現状は、急ぎすぎている。いや、焦って前のめりになっていると言うべきだろうか。「格差是正」「差別撤廃」の美辞麗句に目が眩み、自分たちが選び取ろうとしている未来の暗部が見えなくなっているのだ。
そのため、とにかく明日にでも女性の社会進出を達成させようと、多くの女性を管理職に就かせ、政治家の過半数を女性に置き換えようと躍起になっている。政治家の男女比を対等にするために、過渡的な対策として、女性に一定の議席を割り当てるクオータ制の導入を訴える人も多い。
すでに女性が社会進出を果たしている――フェミニストの視点からは先進的な――国々と比べれば日本は大きく遅れているわけだから、のんびりしすぎということはあっても、急ぎすぎなどというのはお門違いに聞こえるかもしれない。実際、日本の「遅れ」を指摘する声は多い。3月2日に発表された世界銀行の報告によると、男女の経済面での格差が、日本は190か国中104位。OECD(経済協力開発機構)加盟国内で最下位となった。国際女性デーに合わせてイギリスのエコノミスト誌が発表したOECD主要29か国の女性の働きやすさランキングで、日本は28位。7年連続でワースト2位となった。先日の内閣府による男女共同参画社会に関する世論調査では、男女の地位が平等だと答えた人は14.7%。4年前の前回調査より6.5ポイント減少し、1995年の最初の調査以来、過去最低の水準となった。これらのデータを眺めていると、女性の社会進出の推進は、もはや「まったなし」に思えてくる。
しかし、社会進出が女性を不幸にする恐れがある以上、それは慎重の上にも慎重であるべきなのだ。社会進出の達成とともに自殺が急増するようなことになったら、目も当てられない。女性が社会進出を果たしている「先進的」な国々だって、その代償としてなんらかの病弊を抱え込んでおり、日本のメディアは、その暗部から都合よく目を逸らしているだけなのかもしれない。もしこのような情報の偏向が意図的に行われていた場合、メディアは責任を問われなければならないだろう。一面的な報道で世論を煽ってきたことになるのだから。
だからいったん立ち止まり、「女性の社会進出を推し進めるにはどうしたらいいか」ではなく、「女性を不幸にしない社会進出はどのような形になるのか」を考える。安易な社会進出は幸せより不幸せをもたらすかもしれないという危機意識を持つ。
優先すべきは社会進出ではない。幸せなのだ。


・オススメ関連本
熊田一雄『男らしさという病?――ポップ・カルチャーの新・男性学』(風媒社)
松浦理英子『優しい去勢のために』(ちくま文庫)
渡辺恒夫『トランス・ジェンダーの文化――異世界へ越境する知』(勁草書房)
同『脱男性の時代――アンドロジナスをめざす文明学』(勁草書房)
加藤秀一『性現象論――差異とセクシュアリティの社会学』(勁草書房)
田中美津『いのちの女たちへ――とり乱しウーマン・リブ論』(パンドラ)

R-1グランプリ2023 感想

2023-03-05 22:45:34 | 雑文
福岡でははやくも冬が終わったのではないかと思えるほど暖かい日が続いている今日この頃、ついでにマスク生活ともおさらばできたらという願望も思わずこみ上げてきますが、桜の季節が待ち遠しくもあるような気もしつつの、皆さんいかがお過ごしですか的お便り的R-1グランプリの感想文をお届けします。
オープニングで、前々回王者のゆりやんが、前回王者のしんいちと同じくらいしゃべっていたのはなぜなのか。前々からR-1って霜降りとゆりやんに甘いような気がしてたんですけど、今回もそう思わされました。それでは「夢がない」(by.ウエストランド井口)R-1、スタートです。

個別の感想は以下の通り。まずはファーストステージから。


Yes!アキト・・・プロポーズを試みるも、緊張のあまり「結婚してください」が言えず、ギャグを口走ってしまう男。最後まで「け」から始まるギャグで行くのかと思いきや、それは3回まで。あとはもうプロポーズの言葉とは無関係なフリースタイルダンジョンギャグのオンパレード。
よくも悪くもギャグはアキトの最大の武器。その武器なくしてネタを組み立てることはできないということでしょうか。前回のR-1で、尊敬するハリウッドザコシショウから「ギャグの羅列は評価に値しない」と言われたので、ギャグ以外のネタを作り続けてきたと語っていましたが、それならもっとギャグから離れたネタを披露してほしかったです。
去年の、ただギャグを羅列しただけのネタよりは、プロポーズという設定があることでまとまりが生まれてましたが、その縛りがギャグの爆発力を弱めてしまっていたようにも見えます。と言うか、コントのフリしたギャグとも取れますよね。羊頭狗肉ギャグ。
うーん、難しい。アキトはひたすらショートネタ向きということなのでしょうか。ただ、審査員は前回よりもアキトのキャラになじんでいたぶん、評価が上がったのではないでしょうか。

寺田寛明・・・「ことばレビューサイト」という架空のサイトの星ひとつを紹介するというネタ。やられましたね。「ことばレビューサイト」という思いつきだけでもう素晴らしいのに、さらにその中で付和雷同を男性アイドルグループに見立てて遊ぶとか、想像力の飛躍っぷりがとにかく楽しい。もっといろんなレビューを聞かせてほしくなりました。「ご飯が炊けなずむ」が好き。
優勝予想の記事にも書きましたけど、知的なネタって笑いよりも関心が上回りがちですよね。これまでもバカリズムやヤナギブソンやヒューマン中村が「あと一歩」の地点を超えることができませんでした。そんな逆境にあって、今回の寺田はだいぶ善戦したほうだと思います。
イラストは使わず、言葉だけのフリップにこだわり続けてきたという寺田。「ことばレビューサイト」は、そんな寺田が模索を繰り返す中でたどり着いたひとつの発明。その発明を使ったネタをもっと見せてほしいです。

ラパルフェ 都留拓也・・・阿部寛が怪獣と戦うネタ。全体的に、密度が低かったですね。このようなネタの場合、阿部さんの代表的セリフを散りばめて1本のネタにしなくてはならないのですが、都留のモノマネセリフの数はそんなに多くなかったのか、セリフがない「あいだ」が長く、しかもそのストーリー展開が今ひとつ面白みに欠けるものでした。阿部さんが高身長だから怪獣と戦うという設定にしたんでしょうけど、それも最初のインパクトだけというか、シナリオ全体に活かせているようには見えませんでした。都留もまた、ショートネタ向きなのでしょうか。ほかのモノマネレパートリーを登場させるシナリオにしていたらもっと密度が上がっていたと思うんですけどね。
現在の人気からして、ほっといても売れるんでしょうけど、気になるのは相方さんです。コンビ間格差がえげつないことにならないでしょうか。それが解散にまで結びつかないでしょうか。余計なお世話ですかね。

サツマカワRPG・・・ちょっと変わった人たちが、おかしな行動を数珠つなぎで繰り広げるネタ。短編映画のような趣きもあり、世界観に気持ちよく浸れます。感情の起伏を抑え気味にしてあるので、その一本調子がまた心地いいです。少ないセリフでちゃんと伝わる「満員電車内でのトランプマジック」がまた秀逸。サツマカワのキャラには不釣り合いなセンスを感じました。この完成度からふり返ると、冒頭の「敗北を知る和田アキ子」が余計だったような気がしなくもないです。
直前の特番でカツラをかぶっていることを打ち明けたサツマカワ。クリーピーナッツのテーマ曲に合わせて「ハゲるぅ♪」と歌いたくなります。

カベポスター 永見大吾・・・「世界で1人は言ってるかもしれないひとこと」をひたすらつぶやいていくネタ。ゆるやかな展開と落ち着いた声量が心地よい。ヒーリングミュージック的ネタ。長時間聴いていたくなります。これ、特殊なあるあるネタみたいなもんで、言葉のチョイスがなかなか難しい。「絶対誰も言わないよ」と思われたらダメだし、「何人かは言ってるんじゃないの?」と思われてもダメ。ちょうどその中間くらいの、「たしかにまあ、1人くらいなら」と思える絶妙なラインを攻めないといけません。このバランス感覚、かなり高度。
よってネタ作りはかなり大変だったであろうことが予想されますが、しかしその大変さに反比例して、大きな笑いが起こりにくいタイプのネタでもあります。なんかちょっと気の毒ですね。それと、動きがほとんどないのがウィークポイント。これだと舞台でやる意味はあるのか、ラジオなどの音源だけの場でいいのではないかと思えてきます。
「食べられる粘土、こっちだった」と「なんで君はいつも税込みで言ってくれないんだ」と「すりガラス越しでも歌舞伎は迫力がありますね」が特に好きです。

こたけ正義感・・・弁護士の顔も持つこたけが、その知識をもとにおかしな法律を紹介するフリップネタ。全部面白いんですけど、できるだけ文章短いのを選んで手数を多くしたほうがよかったような気がします。とうもろこし粉に関しては、外国のやつだから知らなくてもまあ当然だろってかんじ。個人的には、こたけが感情的になるのが芝居くさいというか、ややわざとらしく見えてしまうのですが、そこはとやかく言うべきではないんでしょうね。
こういう大会って、脱落者が「敗者の弁」を述べる場面があって、だいたいそこでみんなボケたりとか、ひと笑い取りにいくんですよね。で、なぜかこれがほとんどウケない。けっこうみんなスベるんです。しかしこたけの「不当判決」はすごくよかった。「敗者の弁」史上一番面白かったんじゃないでしょうか。

田津原理音・・・オリジナルのトレーディングカードを開封するネタ。なるほど、これもフリップ芸の一種なのか。「チャリでチャリを運ぶ男」など、カードそのものが面白いのもあれば、同じカードが不自然に何枚も入っているという、状況の面白さもある。ひとつひとつの面白そうなカードを、あえてゆっくり見せないというのをやってましたが、全部気になります。SNSで公開しているのでしょうか。
しゃべりが少しヘタなように思いましたが、ネタの展開と並行してカメラの操作までしなくちゃいけないのは大変ですね。なんでも田津原はフリップ芸をひたすらやり続けてきたらしいのですが、しゃべりをカバーするためのフリップということなのかもしれません。

コットン きょん・・・犯人を自供させるために、プロフィールに合わせたカツ丼を作る警察官のネタ。いわばカツ丼プロファイリング?ピンネタずっと作り続けてきたってことでしたけど、これはコンビでやってるコントをアレンジしたもの。まあ、確実にウケるネタですからね。
犯人のタイプに応じたカツ丼のチョイスも納得だし、BGMの使い方、間の取り方もうまい。やっぱやりこんでるネタだけのことはあります。しかしピンでこれだけ面白いと、2人でやるべきネタだったのかとも思えてきますね。
流行らそうとしてる「ヤバイね」は、吉本新喜劇の諸見里大介も使ってるみたいですけど、大丈夫なのでしょうか。


続きましてファイナルステージ。


田津原理音・・・今回は「ぷりんす!コレクション」というトレーディングカード。カードにセリフが付いているのがいいですね。セリフでキャラクターを想像させて答え合わせする、という楽しみが生まれますからね。「世の中に1人くらいはいそうな人」という「あるあるキャラ図鑑」にもなっています。その意味で、カベポスター永見に通じている。
こういうのをチマチマ作るのが好きでしょうがないんでしょうね。やっぱしゃべりはちょっとヘタ。田津原は写真の才能もあるそうで、その横顔もまたコミュニケーション苦手っぽい。

コットン きょん・・・気になる異性が外国に旅立つ前に引きとめるという定番を、リモートで行うという、時代を感じさせるネタ。この設定を思いついたというだけで拍手喝采モノです。リモート相手の顔は見えないけど、見えないほうが面白いので、ピンにふさわしいネタでもあります。ネタ時間が短かったような気がしましたが、続きをもっと見たいって思ったせいでしょうか。ウルフルズは世代を感じる。


放送時間が、直後の「ENGEIグランドスラム」より短いという不思議。これがR-1の世間的な評価ということなのでしょうか。R-1のトロフィー、しんいちに散々連れまわされてたせいで、もはや誰が手にしてもしんいちの顔が浮かんでしまいますね。しんいちは責任を取るべきです。
今回アキトとサツマカワと寺田がラストイヤー。お疲れ様でした。
「無名の新人」が優勝する形となった今回。なんとなくですけど、田津原はテレビ向きじゃないような気がします。テレビタレントとしては定着せず、今後もネタ職人として劇場に立ち続けるんじゃないでしょうか。
なんでも今年からTHE SECONDという、結成16年以上の漫才師を対象とした賞レースが始まるそうで、5月に決勝戦が放送されるとのこと。大会名の通り、ベテラン芸人にセカンドチャンスを与えるための賞レースなのでしょうが、これまではR-1とキングオブコントの間に大きな大会がなかったので、約半年の「空白の期間」があったわけですが、このTHE SECONDは、その合間を埋める大会にもなるわけですね。そちらも記事にするべきか・・・。まあ考えときますよ。