私は、「罪」と「罰」との違いが、長らくわからなかった。
ある日、白川静の『字統』を見て納得がいった。
「罪」の旧字は、「辠」なのだ。罪人の鼻に入れ墨をすることなのだ。肉体に犯罪者の刻印をきざむことなのだ。
「罰」は下に「言」があるように、言葉で罰することなのだ。それが、拡大され、罰金のように、お金で償うこともいう。
したがって、「罪」は「罰」より重いのだ。どちらも、禁じたことをおこなった人間に、支配者である王がくだす処分である。
だから、「罪」だとか「罰」とか言われたら、権力者の横暴に、怒らないといけない。聖書の翻訳者が、安易に、「罪(ざい)」や「罪人(ざいにん)」を使ってはいけない。
白川静の『字訓』を読むと、面白いことが書いてある。日本語で「つみとが」と言うが、「つみ」と「とが」は意味が異なるという。
「つみ」とは、はじめから その意図をもって 禁じられたことを なすことをいう。
「とが」とは、その意図がなく あるいは 知らずに 禁じられことを なすことをいう。すなわち、「誤ること」、「過失」なのだ。
聖書の翻訳者は、「罪(ざい)」と「つみ」とは異なることだ、と知っているのか。
実は、ヘブライ語にも、この区別がある。エーリッヒ・フロムは『自由であるということ―旧約聖書を読む』(河出書房新社)で、ヘブライ語で「罪」は、「ハタ」と「アボン」と「ペシャ」に区別されると書いている。
「ハタ(חטאה)」は、「誤ること」すなわち「過失」なのだ。
「アボン(עון)」は「意図的に悪を行うこと」なのだ。
「ペシャ(פשע)」は「権力や権威や慣習に逆らうこと」なのだ。
聖書で多くの「罪(つみ)」と訳されているものは「ハタ」であり、「罪(ざい)」ではなく、「悔い改める」ものではないとフロムは書く。
『新共同訳 聖書辞典』(日本キリスト教団出版局)でも、「つみ」の項目に同様な説明がある。ヘブライ語の発音が違うだけである。昔のヘブライ文字に母音がないので、著者によって異なるのは仕方がない。
この辞典では、「ハタ」が「ヘート」または「ハッタ」となる。「アボン」が「アーウォーン」となる。「ペシャ」は同じである。
そして、「ハタ」のギリシア語訳に「ハマルティア(ἁμαρτία)」や「ハマルタノー(ἁμαρτάνω)」があてられている、と説明する。
すなわち、日本語新約聖書で「罪(つみ)」と訳されているものの多くは、この「ハタ」「ハマルティア」「ハマルタノー」である。人間は間違いをおかすものである。間違いに気づけば改めれば良い。これが福音書のメッセージである。
ところが、パウロだけは、イエスが全人類の「間違い」を背負って殺された、と『ローマ書』に書いてしまった。聖書の中でも『ローマ書』に、集中的に「ハマルティア」「ハマルタノー」が使われる。
パウロは、アダムが「善悪を知る木の実」を食べて、人類に罪を生じた、と『ローマ書』に書くが、旧約聖書の『創世記』のアダムとエバの物語に「罪」という言葉が使われていない。すなわち、「ハタ」も「アボン」も「ペシャ」も使われていない。神は、人間が、これ以上、神に近くなったら困るから、エデンの地から人間を追い出したのである。
パウロは、神の嫉妬の話を、人間の「ハタ」の始まりと思い違いしたようだ。
死んだイエスが自分に声をかけたと信じるパウロは、「復活の信仰」と「イエスの刑死」の整合性のため、イエスが全人類の「間違い」を背負って「神への いけにえ」になり、これによって、全人類に「復活」が保証されるという考えに至った。
決して、パウロの強調点が「原罪」にあったのではない。そんなもの、頭のかたすみにもなかった。イエスをたたえるために、軽い気持ちで「ハタ」と言ってしまったのだ。
「原罪」は、教会と王権とが結びついたとき、教会が創った統治のための「教化」の道具にすぎない。
それにしても、なぜ禁じられるのか、ということに昔のひとが疑わないのは不思議だ。
人間はそんなにバカなはずがない。
きっと権力者が暴力でもって、人間を押さえつけていたのであろう。