猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「ぼくら みんな罪がある」の補足、つみと罪

2019-04-06 19:20:41 | ドストエフスキーの宗教観


私は、「罪」と「罰」との違いが、長らくわからなかった。

ある日、白川静の『字統』を見て納得がいった。

「罪」の旧字は、「辠」なのだ。罪人の鼻に入れ墨をすることなのだ。肉体に犯罪者の刻印をきざむことなのだ。

「罰」は下に「言」があるように、言葉で罰することなのだ。それが、拡大され、罰金のように、お金で償うこともいう。

したがって、「罪」は「罰」より重いのだ。どちらも、禁じたことをおこなった人間に、支配者である王がくだす処分である。

だから、「罪」だとか「罰」とか言われたら、権力者の横暴に、怒らないといけない。聖書の翻訳者が、安易に、「罪(ざい)」や「罪人(ざいにん)」を使ってはいけない。

白川静の『字訓』を読むと、面白いことが書いてある。日本語で「つみとが」と言うが、「つみ」と「とが」は意味が異なるという。

「つみ」とは、はじめから その意図をもって 禁じられたことを なすことをいう。

「とが」とは、その意図がなく あるいは 知らずに 禁じられことを なすことをいう。すなわち、「誤ること」、「過失」なのだ。

聖書の翻訳者は、「罪(ざい)」と「つみ」とは異なることだ、と知っているのか。

実は、ヘブライ語にも、この区別がある。エーリッヒ・フロムは『自由であるということ―旧約聖書を読む』(河出書房新社)で、ヘブライ語で「罪」は、「ハタ」と「アボン」と「ペシャ」に区別されると書いている。

「ハタ(חטאה)」は、「誤ること」すなわち「過失」なのだ。
「アボン(עון)」は「意図的に悪を行うこと」なのだ。
「ペシャ(פשע)」は「権力や権威や慣習に逆らうこと」なのだ。

聖書で多くの「罪(つみ)」と訳されているものは「ハタ」であり、「罪(ざい)」ではなく、「悔い改める」ものではないとフロムは書く。

『新共同訳 聖書辞典』(日本キリスト教団出版局)でも、「つみ」の項目に同様な説明がある。ヘブライ語の発音が違うだけである。昔のヘブライ文字に母音がないので、著者によって異なるのは仕方がない。

この辞典では、「ハタ」が「ヘート」または「ハッタ」となる。「アボン」が「アーウォーン」となる。「ペシャ」は同じである。

そして、「ハタ」のギリシア語訳に「ハマルティア(ἁμαρτία)」や「ハマルタノー(ἁμαρτάνω)」があてられている、と説明する。

すなわち、日本語新約聖書で「罪(つみ)」と訳されているものの多くは、この「ハタ」「ハマルティア」「ハマルタノー」である。人間は間違いをおかすものである。間違いに気づけば改めれば良い。これが福音書のメッセージである。

ところが、パウロだけは、イエスが全人類の「間違い」を背負って殺された、と『ローマ書』に書いてしまった。聖書の中でも『ローマ書』に、集中的に「ハマルティア」「ハマルタノー」が使われる。

パウロは、アダムが「善悪を知る木の実」を食べて、人類に罪を生じた、と『ローマ書』に書くが、旧約聖書の『創世記』のアダムとエバの物語に「罪」という言葉が使われていない。すなわち、「ハタ」も「アボン」も「ペシャ」も使われていない。神は、人間が、これ以上、神に近くなったら困るから、エデンの地から人間を追い出したのである。

パウロは、神の嫉妬の話を、人間の「ハタ」の始まりと思い違いしたようだ。

死んだイエスが自分に声をかけたと信じるパウロは、「復活の信仰」と「イエスの刑死」の整合性のため、イエスが全人類の「間違い」を背負って「神への いけにえ」になり、これによって、全人類に「復活」が保証されるという考えに至った。

決して、パウロの強調点が「原罪」にあったのではない。そんなもの、頭のかたすみにもなかった。イエスをたたえるために、軽い気持ちで「ハタ」と言ってしまったのだ。
「原罪」は、教会と王権とが結びついたとき、教会が創った統治のための「教化」の道具にすぎない。

それにしても、なぜ禁じられるのか、ということに昔のひとが疑わないのは不思議だ。
人間はそんなにバカなはずがない。
きっと権力者が暴力でもって、人間を押さえつけていたのであろう。

ドストエフスキーの「ぼくら みんな罪がある」

2019-04-06 17:22:06 | ドストエフスキーの宗教観

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に、修道僧ゾシマ長老が、死ぬ直前に、集まった五人を前に、自分の8歳上の兄のことを語る、章がある。

長老の兄は17歳で死ぬのだが、その前に、突然、こころ変わりをして、次のように言う。
「ぼくら みんな、すべての人に対してすべての点で罪があるんだよ、ぼくはそのなかでもいちばん罪が重い」
往診に来た医師は「病気のせいで精神錯乱におちいっています」と母に言う。

これは、別に、聖書の言葉が兄の口から出たわけでない。

『カラマーゾフの兄弟』を読むと、当時のロシアの上流、中流のひとびとは、文字通り、すごく悪い。本当に、彼らみんな、罪がある。「支配」と「従属」の関係をあたりまえだと思っている。下層民の私としては、それにすごく怒りを覚える。

革命こそがロシアの地に必要だ。

だからこそ、ドストエフスキーが、その兄に次のセリフを当てたのであろう。

「ぼくに仕える価値なんて あるのか?もし神さまが情けをかけて 死なずにすんだら、こんどは ぼくが おまえたちに仕えてやるからね、だって、だれもが たがいに仕えあわなくちゃ ならないんだから」

「人生って天国なんだから、ぼくたち みんな 天国にいるのに それを知ろうとしないだけなんだよ。その気になれば、あすにでも世界中に天国が現れるんだから」

原罪とか、人類普遍に罪があるとか、そういう問題ではない。

ゾシマ長老の兄は、生きたまま、すでに「天国」におり、天国に行くために、すなわち、地獄に行かないために、「ぼくらみんな罪がある」と言ったのではない。兄が、「支配」と「従属」を慣習とする社会構造のあやまりに、気づいたという設定なのだ。

「支配」と「服従」は、社会構造の問題であり、個人のこころの問題にしてはいけない。
私の学生時代にも、「自己否定」とか「自己批判」とか言う者たちがいたが、
何の役にも立たなかった。
自責の罠に陥ちらず、社会の構造を変えなければ、いけない。