私は言葉にたいする不信が強い。けさも「ほめちぎる学習塾」というビラが郵便受けにはいっていた。それだけでない。「海洋放出に国民と対話を」という見出しのもと、2年後に控えるトリチウム水の海洋放出を安全安心と説得せよが、新聞が書いている。
言葉で人のこころを操作できると言っているのだ。人を取り巻く環境を変えずに人の心を操作でできると言っている。
私は言葉をだいじにしたいと願っている。私が誰かに言葉を投げかけるとき、相手の反応を見ながら、自分の考えを変えていく。
言葉がこころからでたものであれば、相手の反応で変わる自分がなければならない。
子どもをリスペクしない塾講師が子どもをほめちぎっても、それは、ウソの世界にのめり込もうとしているだけではないか。たしかに、ほめちぎれば、子どもの警戒心が緩む。一部の子どもに効果がある。しかし、結局、子どものこころをねじ伏せて、自己を放棄させているだけではないか。
福島第1原発のトリチウム水が安全安心だと言葉で説き伏せようとも、自然界になかった大量のトリチウムを放出しているのに変わりがなく、人間界の都合で自然環境を破壊している事実は不動である。自然界のトリチウム濃度は人間の核実験や原発によって何倍にも何十倍にもなっている。政府の海洋放出が不動の政策として、国民を言葉によって説得しようということは、「オレオレ詐欺」と かわらないのではないだろうか。
電通や博報堂の人びとは、言葉で、人間の行動を変えることができると思っている。それはそうであろう。新型コロナ感染対策は、「緊急事態宣言」という魔法の言葉で、新規感染者を減らしてきた。しかし、人間の行動を言葉で変えるというのは、人を操作する技術に過ぎず、新しい人間行動は倫理的に良いことか、という問題は厳然と残っている。
世の中に「コミュニケーション戦略研究家」という肩書があることを新聞で知った。実際、不祥事があるたびに、謝り方の技術的コメントが新聞にのる。「あやまる」ということは、自分の行為が「あやまり」であることを認め、正しい方向に歩むことでないか。言葉を、追求を避けるための「ごまかし」としか考えていない。
言葉を話し手の欲得実現の手段として使うことに、人としての誠実さを見えない。こころない人の言葉の使用で、つぎつぎと言葉が劣化していくのが私には耐えられない。