猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ウーウーという うなり声が聞こえてきた暖かい春の日

2021-03-27 22:25:00 | 愛すべき子どもたち


きょう、暖かい日和にさそわれて散歩していたら、ウーウーという大きなうなり声が聞こえた。
あたりを見回したら、釣りの老人がひっくり返って池に頭を突っ込んでいた。みんなが来て引き揚げた。居眠りをしたらしい。しかし、声のくる方向と違う。
池から離れてなだらかな坂道を上りはじめても、また、ウーウーという大きなうなり声がついてきた。後ろを振り返ると、おばあさんが杖を突きながら、ついてきている。おばあさんが、こんな大きなうなり声を出せるのだろうか。
坂道を登りきると、あたりが開けて、子どもたちが水場で遊んでいる。うなり声は近づいてきた。車いすの若者だった。数人でかわるがわるに押していた。ときどき、ウーウーがウッウッに変わった。喜んでいるのだろう。

言葉がでないというのは、本人にとって とても もどかしいだろう。虐待されても訴えることができない。5年近く前の相模原のやまゆり園殺傷事件では、言葉が話せないという理由でだけで、元職員の一人によって、殺された。そうでなくても、知らない人に、自分の気持ちをわかってもらえない。

なぜ、言葉を発せられないかが、私には不思議である。

言葉が発生られないのには、肉体的な欠陥によるものがある。NPOで私の担当したダウン症の子に、何を話しているのがわからない男の子がいた。はじめ、発音の矯正しようとムキになったが、ジェスチャーで意思を表現ができるし、人の言うことは理解できる。矯正をやめた。「かわいい」という言葉だけはハッキリと言えるので、子どもたちのなかでは人気があった。

ジェスチャーは立派な言語である。話すべき事柄が頭の中で作り上げられているのだ。

つぎに言葉が発せられない子には知らない人への警戒心からくるものがある。これは色々な程度に差がある。警戒心を解いてあげれば、話すようになる。

音声器官や聴覚に問題もなく、誰とも話せない子どもに、心理的な問題でなく、知的な問題の場合がある。ジェスチャーもないから知的な問題であることがわかる。ソーシャルワーカーの人によれば、30歳までが勝負となる。言葉が話せないとグループホームに入るのが難しくなる。

私の担当の子どもに言葉が出ない子がいた。はじめて会ったのは、中学1年に上がる前の春先であった。前任者の手首をつかんで離さないので、私が引き受ける羽目になった。女のスタッフだったので、大きくなった男の子がつかんで離さないのが、気持ち悪いという。その前任者に指導をみせてもらうと、その子の手首をつかんで指導するから、その子も彼女の手首をつかむのだと思った。

前任者は、彼が字を読めないし書けないことにムキになっていた。しかし、その前に言葉を発せられないのが問題だと私は思った。いまでも、字を形として認識できるが、音声や意味を伴う記号として、理解できない。

その男の子はいま22歳になっている。毎週金曜日の夕方には親に送られて私に会いにくる。1時間近く会話の練習をする。といっても、同じ簡単な会話のパターンを、動詞を中心に私が繰り返し、ときどき、彼に質問をする。彼がすきなのは、私が「やきいもー♪、やきいもー♪、ホカホカの焼き芋いりませんか」というと「大きい焼き芋ください」と答えるパターンである。練習の最後は、きょう1日に起きたことや、これから起きること、家で何を食べるのか、お父さんやお母さんといつも何をしているかなどを聞き取り、口頭日記として書き取り、親に渡すのである。答えは、毎回同じようでも、少しずつ変化している。

とにかく、とても苦労したが、その子は、話せるようになった。ところが、私のまわりのスタッフが彼の話せることに気づいていない、ということに、最近、私は気づいた。大きくなった彼は、いまだに、飛びはねるし、ウーウーとうなるからだ。それが、彼にとって、とても楽しいことなのだが。

きょう会った車いすの若者にも、もしかしたら、話せる誰かがいるのかもしれない。


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