岸田文雄は「リベラル」という言葉を使わないが、宏池会系であることで、「リベラル」と見なされることがある。日本の古い世代には、リベラルとハト派と似たひびきがあるようだ。しかし、岸田自身は外交においては安倍路線を引き継ぐようだ。
リベラルとは何であるか、私にはよくわからない。その語を使う人によって意味が変わるからだ。
11年前、マイケル・サンデルの『ハーバード白熱強熱』がNHKで放映されたとき、リベラルとリバタリアンと違いが分かったような気がした。他人のことも思う自由主義がリベラルで、自分のことをしか思わないのがリバタリアンという説明だったようである。しかし、これがみんなに共有されているわけでもなく、また歴史的な定義でもない。
宇野重規の書評を見て、田中拓道の『リベラルとは何か 17世紀の自由主義から現代日本まで』(中公新書)を読んだが、ますます、わからなくなった。宇野重規自身は田中のこの本を褒めて、「リベラルを切り捨てる前に、ぜひこの本を読んで欲しい」と言っていた。
田中が彼の本で明らかにしていたのは、リベラルがとる政策は、時代と国によって大きく変わるということである。
そこから、私が読み取ったのは、一貫したものとして、リベラルは「共産主義」に反対する立場であることだ。リベラルは私有財産を肯定するのである。リベラルの創始者と言える、ジョン・ロックは、彼の「統治論」で、王や大衆から私有財産を守るために、政府や法が、あるのだと主張している。
ロックをはじめとするリベラルの考え方は、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』にコンパクトにまとめられている。リベラルの考えは、三権分立のように、現在の代議制民主政の基礎となる概念を生んだ。しかし、リベラルは、あくまで、上からみた「気前の良い」福祉国家であり、「反共」や「中間層を増やす」など、私が納得できないものを多く含んでいる。
中間層を増やすのではなく、貧困層を減らすか、富裕層を撲滅するのが筋ではないか。
細かく見ると、ロックは、『統治論』で、「共有」が基本で、「私有財産」を個人の労働の成果として控え目な形で主張している。人間が本当に自分だけの労働の成果と主張できるものが、どれだけ明確にあるか、という問題を念頭において、ロックは書いている。自分だけの成果でなければ、格差が大きいことは、搾取である。人の労働の成果を盗んでいるのである。
岸田の「新しい資本主義」は、「資本主義」というものはどう定義しているのだろうか。なぜ資本主義にこだわるのだろうか。共産主義が、個人のささやかな貯蓄や持ち物を奪い取ると、怯えているのだろうか。「資本」というものが、自由な企業(ビジネスの立ち上げ)の障害になっているではないか。
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