ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に、
「このぼくは、他人に奉仕してもらえる値打ちなんてあるか、相手の貧しさや無学をいいことに、彼らをこき使う資格などあるのか?」
「こんどは ぼくが おまえたちに仕えてやるからね、だって、だれもが たがいに 仕えあわなくちゃ ならないなんだから」
というゾシマ長老の兄の言葉がある。
この「みんなに仕える」という考えは、新約聖書の『マルコ福音書』『マタイ福音書』『ルカ福音書』に固有のものである。
新約聖書の『マルコ福音書』の9章33-35節に、次のようにある。
〈一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。〉
〈彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。〉
〈イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」〉
また、『マルコ福音書』の10章42-44節に、つぎのようにある。
〈そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。〉
〈しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、〉
〈いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。〉
この考え方は、『ヨハネ福音書』やパウロの書簡など、新約聖書のほかの書にはない。先の三福音書に固有の革命的理念である。
なお、10章42節の共同訳「異邦人」は誤訳で「ひとびと」と訳したほうがよい。英語なら“peoples”とするところである。これは、別途、議論したいが、とりあえず、イエスの言葉を私が訳し直すと、次のようになる。
〈あなたがたも知っているように、ひとびとの「長(つかさ)」らしき者たちが、ひとびとに向かって主人ぶり、ひとびとの位の高いほうの者たちが、ひとびとに向かって威張っている。〉
三福音書は、ローマ帝国の属州であった当時の社会全体を痛烈に批判しており、ユダヤ人社会もその中に含まれている。決して「異邦人」などの「他人ごと」ではない。
ドストエフスキーは、ゾシマ長老に
「俗世で召使なしにやっていくこと不可能だが、それなら自分の家では、召使が、かりに召使でない場合より気分がのびのびできるよう工夫してやるがいい」
と、弱気なことを、言わせている。
現在の日本では、「お手伝いさん」をかかえる「家庭」を見ることが めっきり なくなった。
アンデルセンの童話を読むと、貧しい女の人が冬の冷たい川の水で洗濯するというシーンがよくでてくる。
つい最近まで、日本でもそんな世界があった。洗濯機がでてきて、電気釜がでてきて、掃除機がでてきて、召使を家庭に抱えることが不要になった。
しかし、日本の職場や家族の人間関係には、三福音書が批判する主従関係が、まだ、残っている。
だれかがだれかに一方的に仕えるのでなく、たがいに仕えあうのが、平等であり、本当の幸せである。
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