猫じじいのブログ

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森本あんりの 日本の宗教 の誤解

2019-03-03 14:13:26 | 宗教

森本あんりは、国際基督教大学の学務副学長だけあって、彼の『反知性主義』(新潮選書)のなかで、プロテスタント各教派のあり方を詳しく、しかも、優しい視線で批判している。16世紀の北ドイツ、ミュンスターのプロテスタント過激派アナバプテストさえ黙殺せず、ののしらず、取り上げている。

しかし、森本あんりは日本の仏教をよく知らないように思える。

森本あんりは、中世のカトリック教会、あるいは、ドイツ農民戦争後のカトリックとプロテスタントの妥協を批判するのに、個人の信仰を無視した、地域の住民全体の1つの教派、教会への丸がかえをあげている。これは、宗教的争いを、政治的不安定を招くものとして、世俗的権力が抑え込んだ結果である。教会制度を読者に理解してもらうために、日本の檀家制や氏子制にたとえている。私はこのたとえに違和感をおぼえる。

日本の仏教は、もともと最澄の天台宗と空海の真言密教とに分かれ、知性に頼るか秘儀に頼るかの争いがあった。天台宗の表の教えでは、神などという超人間的なものは存在せず、知性にもとづいて、生き、そして死ぬことである。これでは貴族の即物的要求に答えられない。よって、密教が天台宗のなかにも入り込んでくる。

鎌倉時代に、さらなる教義の論争から色々な宗派に分裂し、辻説法や念仏踊りという積極的な布教が行われ、仏教が大衆化した。各宗派は競合したのである。

現在の檀家制度は、江戸幕府の宗教弾圧政策によるもので、幕府は自分に従う宗派と従わない宗派にわけ、民衆の個人レベルで、どの宗派に従うかを登録させた。これが檀家制である。公認の宗派以外は、拷問や処刑の対象とした。幕府が恐れたのは、民衆レベルの信仰により、家来が、抑圧される者に共感することである。徳川家康だけでなく、織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、信仰に裏付けされた自治を行う農民たちを殺しに殺して、自分の権力を固めてきた。私の故郷の北陸は、武士に殺された農民で、血の海になったのである。
檀家制は信教の自由の否定である。また、宗教の否定であったのである。

氏子制の歴史は多少複雑で、現在の氏子制は、戦後、天皇の神格性が否定された結果である。
明治政府は、欧米との関係上、信教の自由を認めざるを得なくなったが、信教の自由が権力者の秩序を乱さないように、天皇崇拝を儀礼として国民に強制した。すべての神社は天皇崇拝の「支店」で、国費が支給された。ところが、日本の敗戦で、神社に国費が支給されなくなり、昔、村の祠(ほこら)が村民の共同負担で維持されたように、近くの住民からお金を集める必要が生じた。そのために、明治以降作られた新興の神社も氏子をもつようになった。新興の神社は宗教としては破たんしているし、氏子も少ないので、現在、観光ビジネスや、民族主義運動に加担することで、存続している。

現在の神社・寺院の制度と、キリスト教会との間にはアナロジーがなりたたない。

これ以外にも、プロテスタント牧師の多くは、キリスト教の「義認」と親鸞の教えと近いものと考えているようだが、全く異なる。
浄土真宗と日蓮宗の争いで、面白いのは、宮沢賢治の父親が息子の賢治に言った次の言葉である。
「お前は人を信じないでモノを信じるのか。馬鹿め」
浄土真宗は、阿弥陀仏(生きた人間である)がすべての人間を救おうと願ったことに人間の希望を見いだすものであるのに対し、日蓮宗は、日蓮が書いたものに判断をゆだねることだ、と賢治の父親は見ていたのである。田中智学のリバイバリズム、国柱会の熱狂のなかにいた賢治がどう言い返したのか興味があるのだが、私は知らない。

阿弥陀仏は神ではないので、一方的に、人間に恵みを与える力はない。そういう菩薩(求道者)、阿弥陀仏が過去にいたのは希望だが、阿弥陀仏は死んだ人間なので、神秘的な力をふるうことはできない。神を信じるプロテスタントとは、無神論の浄土真宗は異なる。

[参考図書]
森本あんり:「反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体」 新潮選書、新潮社、 2015.2.20、ISBN: 978-4106037641
島薗進:「国家神道と日本人」岩波新書、岩波書店 2010.7.22、ISBN:978-4004312598


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